00/07/21~01/06/19
きつねからの秘密のおくりもの(2001/06/19)
お坊さんの夢で感じたこと…(2001/06/04)
あなたの喜びが私の喜び(2001/04/12)
独りではないということ(2001/04/08)
「今のままではいけない」症候群(2001/03/10)
”笑い”のもたらすもの(2001/01/25)
20世紀…(分離から統合の観点へ)(2001/01/24)
幸せ創り(2000/12/28)
根性論(2000/12/25)
めぐり会い(2000/11/27)
「良い子」と偽りの自分(2000/11/20)
小学生時代の担任(2000/10/26)
ヨグマタに会って(2000/09/21)
誰のためなのか(2000/09/11)
人生はゲーム(2000/08/30)
ソフィーの世界(2000/08/24)
情報の行く末(2000/08/09)
祈り(2000/08/02)
私の価値判断、あなたの価値判断(2000/07/21)
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僕は近頃、見える世界、見えない世界について考えることがよくある。
「ところで、きつねの秘密??ん?なんだろう?」と思われたかもしれませんね。
それは何かというと、順を追って説明しなければなりませんね。
実は数年ぶりに読んだ本があります。その本は『星の王子様』。フランスの作家、サンテグジュペリの著作で有名ですね。
そのなかで王子と出会い友達になったきつねが、王子とのお別れの場面で「秘密」をおくりものにする。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、物事はよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ。」
そう…大切なことは目に見えないんだ。
僕にとっての大切なことってなんだろうか・・・? 幸福、家族の絆、健康…
病気の時などにはとくに「健康が一番!」なんて思うし、例えいくらお金があったって健康でなければ意味がないし…
そうか、目に見える物は大切じゃないんだ。(あっ、これって数ヶ月前に行った高木善之氏の講演会で話していたこと思い出した!)
何を大切にするかというのは、もちろん個人の自由なのだろうけど。
コレは大切なのか?そうでないか?そんな基準をはかるとき、「見えるのもなのか?見えないものなのか?」という視点で見てみるのもいいかもしれない。
また、自分のことも「心で見る」ことができたとしたら、はじめて「目に見えない」「かんじんなこと」
が見えてくるのだと思う。人に思われなくても、人のために生きなくても、自分の中の大切な物を大事にしていきたいと思う。
ところで、この本『星の王子様』は素晴らしい本だと思う!
大人になっていくうちに、なにか大切な物をひとつ、またひとつとなくしてきたのかもしれない。
そんな大人に、子供の頃のあの新鮮な視点を思い出させてくれるのだろう。
この本を読み終えた時に、心の中にあったかいものを感じることができた。
みんな一度は読んだことがあるのではないだろうか?たまには、読み返してみるのもいいものです。
(2001/06/14)
今からさかのぼること2か月ほど前、僕は京都に行ったのだった。
深夜高速バスで新宿を発車し京都に向かった。その夜から数日間、不思議な夢を見るようになった。
−その1−
きれいに頭を丸めた眉のきりっとした袈裟を着た若い坊さんが、上の方から大勢の人々に修行のようなことをさせている。僕もその修行者の一人なのだ。
どんな修行をしているのかというと、天に向かってまっすぐにのびる梯子があり、それをただひたすらに昇っていくのだ。一生懸命やっているのだがとっても疲れる…
そして調子よくいいところまで昇ると手を滑らせてしまってまた最初の地点に滑り落ちてしまう。
すると今度、僕は他の人々になんとか追い付きたくて必死で昇る。それも急がなければ追いつけない…焦りや自分への追い込みがプレッシャーとなる。そのため梯子の段を一段抜かしして必死に昇っていく。
すると、通常のように昇るよりも早くは昇って行けるものの、脚への負担や身体の疲れは大きくなる。
せっかくそこまで昇ったものの、また手を滑らせてしまって、もとの地点に戻ってしまう。
また自分の遅れを取り戻すべく、今度は梯子の段を二段抜かしで必死に昇る。またある地点まで行くと滑り落ちてしまう。
この繰り返し… 途方に暮れ、ややふてくされている僕。そこにお坊さんが一言。「一段ずつ昇ってゆけばいいのではないか?」と。
ハッと我に返り目が覚めた。かなりの寝汗をかいていた。
僕は一体、何を急いでいるのだろう?
と考えたとき、日常、心のどこかで焦りを感じていた自分がわかった。
夢の内容と同じような思いで生きていたのだ。自分らしく生きていないし、誰かをまねようとしていたのかもしれない。
一段一段しっかりと踏みしめる…基本が大事なんだ。そうでなければ足下が安定しない。今必要なのはスピードではなく自分自身のペースで、他人に合わせるのではなく…という確実性なのかも。
…と自分では判断したのだった。夢はそんな自分の姿を暗示していたのか??
京都のホテルで見た夢
−その2−
僕は大岩や松の木のある、庭園のようなところをぼーっとして歩いている。
「ビュイッ!」という風の音とともに、僕の左手前上方向から見覚えのある坊さん(その1の夢に出てきた坊さん)が姿を見せた。「ビュイッ!」という音は坊さんの着ている袈裟の風切る音だった。僕は一瞬呆気にとられていると、先の尖った(八角推の鉄製の)手裏剣のようなものが勢い良く投げられた。その手裏剣のようなものは「コーン」という音を立てて僕の右前方にある橋の木製の欄干にささった。今度もまた一瞬のうちにだ。
橋の下をふとみると、頭の幅1mもあるかと思うくらいの巨大な虎がムクっと起きあがり、僕に気づいた。その途端にもう僕は大きな口を開け、牙をむいている虎を正面に見ていた。
僕はその巨大な虎の存在に全く気づかずに、呑気に橋を渡ろうとしていたのだった。
「もうダメだ」と思った瞬間、虎は坊さんに首を絞められて、苦しそうにのたうちまわっていた。坊さんは凄い力でさらに絞め上げている。
するとなぜか?虎はみるみる小さくなっていき、さらにその姿はなんと人間の赤ん坊になっていった。それでも坊さんは絞める手をゆるめない。僕は心の中で、「この坊さんは情もなく、なんて酷いことをするんだ!かわいそうだ!」と思っていた。赤ん坊を絞め上げているその光景は目を背けたくなるものだった。
再び目を戻したときには、ゆっくりと霧のようにになって消えてゆくところだった。
坊さんは息も乱さず立っている。「外見(そとみ)はわからないことはある」と厳しい目で一言言った。
またここで目が覚めた。
その時にはもう冷や汗たらたら、心臓ドキドキ、Tシャツ、浴衣はびっしょり。
それよりとても怖かった。なぜって、今までに会ったこともない坊さんが2日連続して僕の夢にでてきたこともそうだし、その夢のリアルなこと!
この夢も、自分の姿を暗示していたのだろう。良い悪いに関わらず人を外見で判断してしまうところがある。自分でも良くない癖だと認識してはいるものの…
外見で判断したり、表面上の情に訴えられて妥協したりしたことが思い浮かんだ。
なんだか作り話のような話なのだけれど…
この後も日をあけて、同じ坊さんが夢に出てきたのだ。
強烈に内容を覚えているのは上記の2つなのだが、他の夢も、自分自身を気づかせるような一言がかならずあった。
なんだか不思議な体験でしたよ。
(2001/06/04)
最近、「中高生の社会奉仕活動義務化が検討されている…」ということをニュースで知った。
僕はこの中の"義務"というフレーズがとても気がかりだ。
奉仕活動というものは義務で行った場合も奉仕なのだろうか?
奉仕っていうのは、嫌々ながら…なんていうのはもちろんのこと、気持ちがないのに続けられるものでは決してないのだろう。
ある辞書によると、自分の損得とは関係なく社会や他人のために働くことが「奉仕」ということらしい…
ただ、奉仕活動を体験する機会が与えられるということはとてもいいのではないかと思う。
気持ちがあっても、どうしたらいいのか手段がわからないなんていうこともあるでしょうから。
さて、本当の意味での奉仕実践者は、なぜ無償の奉仕ができるんだろうか?
数ヶ月前にテレビの番組(徹子の部屋)で、桂小金治氏が話していたことを思い出した。
氏が子供の頃、父と汽車に乗って出かけた時の話だった。それを少しシェアしてみよう。
[小]…少年小金治 [父]…小金治氏の父
時は戦後のいろいろな混乱期、身動きもできないほどの混雑した車両
[小]…「父ちゃん、おしっこしてくる。」
[父]…「うん。」
[小]…しかし、すぐに戻って来てしまう。
[父]…「どうしたんだ?すぐに戻って来ちゃって」
[小]…「父ちゃん、便所が汚すぎて使えなかったよ」
[父]…「そうか…」「じゃ、おまえね、もう一回便所に行って掃除をしてきなさい。」
[小]…「えーっ!だって僕が汚したんじゃないさ。なんで僕が掃除をしなくちゃいけないの?」
[父]…「いいかい、おまえが小便できないくらいに汚れているなら、きっと他の人も用を足せずに困っているだろう?そう思わないかい?」
[小]…「うーん…」「そうだね…」
[父]…「さぁ、行っておいで」
[小]…「わかった。」
そして、掃除をして戻ってきた少年小金治。
[父]…「どんな気分だい?」
[小]…「うん、とってもいい気持ちだよ、父ちゃん」
[父]…「な、そうだろう?」「いい行いをしたあとはとっても気分がいいだろう?」
[小]…「うん!」
[父]…「誰かのために役にたったし、このいい気分を味わっただけでもその甲斐はあっただろう?」
[小]…「うん!父ちゃん」
[父]…「いいかい、このいい行いを一日一回でもいいからこれからやってみような!」
[小]…「わかったよ!」
〜そう、こんな内容だったと思う。
この時、気づいたこと。「あなたの喜びが私の喜び」「私の与えるものが私の受け取るもの」これなんだ!と。
誰かのために、自分が、今できることをやる。ということ。
他者への奉仕は自分自身への褒美になって戻って来るんだ。こんなことを意識しているのはある意味、利己的なことなのかもしれない。
しかしそうであってもいいのではないだろうか?
その行いが世界をよりよく変える一歩になるのだから。
僕には生後10か月になる娘がいる。娘の笑顔を見ていると本当に幸せな気分になれる。
娘が喜んでくれるようなことを(自分自身も楽しんで)ついやってしまう。もちろん義務でもないし、自主的に。(^-^)
この時の意識は、「ただ娘のために…」なのだ。無私の愛とか無償の愛なんていう言葉があるがまさにこの時の行為はこれにあたるのではないだろうか?
娘の笑顔は日常の様々な嫌なこと完全に忘れさせてくれる。これは「私」が「無い」からなんだな…
他者への奉仕… 他者のため… は、自分自身を解放し、幸せになるための大きなキーになるのだろうか。
娘だけでなく、妻にも、そして親兄弟親戚にも… これがどんどん拡がっていって…
みんなが笑っていられる社会づくりのヒントもここにあるのではないだろうか?
(2001/04/12)
雑踏の中を一人で歩いているときのこと…
「一人じゃないって〜素敵なことね〜♪」こんな昔の歌が頭の中に響いていた。たまーに、こんなふうに昔の曲が頭の中をよぎることはある。でも、この時はこの「ひとり」ということについて深く考えてみたいと何故か?思ったのだ。そして、ほんとうに「独りじゃないっていうことは素敵なことなんだ!」と思えた。
自分という存在を世界から切り離した状態…自分を限定して… こんな時は何故か不安を感じたり、イライラしたりする。
また、ついこのあいだ、こんな話をしたことを思い出した。「同じ現実を共有する仲間がいると、安心するよね。」というような話だ。
例を挙げてみるとこんなシチュエーション。
一人で待ち合わせ場所にいる。そして誰かを待っている。しかし相手はいくら待てどもやって来ない。イライラしてくる。待ち合わせ場所が違ったのか?と不安になる。連絡は取れない。何かあったのか?心配になる。などなど。
ひとりでいるとこんな考えになってくることもあるだろう。(もちろん人によってだけど…)
こんな時、誰かとこの状況を共有できたとしたらどうだろうか…
上記の事態よりは安心感が持てるのではないだろうか?
つまり、この違いは一人じゃないということ。
何を"独り"と規定し、何を"独りではない"と規定するのか?ということは、ものの見方による。
私たちはみな繋がっているという観点に立てば、みな独りじゃないし、自分は自分であってあの人でもこの人でもないというふうに考えれば自分は孤独な存在となる。
自分独りという立場でいつもいると、困難な状況に陥ったときに、非常にプレッシャーがかかり、疲れる。焦りや不安が募ってくる。こんな時、誰かがサポートしてくれるなどということは考えもつかない。何とかしなければ!
実は僕はこんな事が多い… 苦労を背負い込みやすいタイプなのかも…
それも、心の内にそれをしまって悩んだりしていた。
しかし、ある時そんな胸の内を誰かにすべて話したいという気がしてきて、それを話したのだった。
ただそれだけで、胸のあたりの重さが解けたように感じた。さらに、協力してもらえることになり良い展開がおとずれた。
その時に気づいたことは、いままで自分は誰かに協力を求めてこなかったかということ。
素直じゃなかったのかもしれない。
「自分は特別だ」は、大宇宙との繋がりを断つものとなるのかもしれない。
自分が調子よく乗りまくっている時、他の人々と比べて優位に立っているとか思うこともあるのだろう…またその逆で、何事もうまくいかずに苦しんでいて、また他者と比べ自己卑下したり。良いにつけ悪いにつけ、繋がりを断つ。
繋がっている状況を創り出すのも、いない状況を創り出すのも自分自身なのだ。
(2001/04/08)
僕には「今のままではいけない」「何とかしてここから脱しなければ…」と思っている時期が時々ある。
なぜなのかわからない不安感のような、落ち着かない状態だ。
そう、今のままでは”不完全”なのだ。でもそれがどうして不完全なのかはわからない。
こんな時は何をしていてもつまらないし、幸せではなく…
そこで目を向ける先は今の自分だ。そう、「今のままではいけない…」
こんな堂々巡りを繰り返すうちに居たたまれなくなってくる。
でも、いったい何が原因なのだろうか?
そんなある日、ふと気づいたことがあった。「自分が主じゃなかったんだ。」
そして、僕は僕であって、この世界にただ一人の存在である。今この一瞬一瞬が完全であって、誰のまねもしなくていいし、自分が自分の在り方を決めればいいということだ。
いままでは、ただ「自分はこのままではいけない」と決めていただけだったのだ。
好きなように決めればいいだけなのかも…
これで気が緩んだ。
(2001/03/10)
「問題ばかり見ていると答えは目に入らない。目に見えないものを見ろ。恐れとか怠惰で人が見ようとしないものをみろ。新しい世界が見えてくる。」これは、ある精神科医の実話をもとにした映画『パッチ・アダムス〜トゥルーストーリー』でのやりとりの一こまだ。
この映画は、いま世の中であたりまえだと思われている、ものの見方を変える手助けになるものではないかと思う。
今の現状が好ましいものではないと気づいているのに、習わし、慣習、すり込み、伝統…とそういったものの上で、その流れの滞ったなかにいることはないだろうか。
最近の日常生活の中で、そして冒頭に紹介した文から気づいたことがあった。
僕はあることから、ひどくつまらない思いをしていた。その時そばにいた妻に、そのつまらない気分のまま話をしていた。
僕はまじめな話をしていたのに、それに対する妻の答えは、とぼけた駄洒落っぽい返答だった。
「なんでそうふざけてるのかなぁ…」その時の僕はそんな見方しかできなかった。
「そんなつまらない時こそ、少しでも明るい気分になれたらね…と思ってね。言ってみたの。」と私の妻。
その時、気づかされた。そうだよな…僕は問題ばかり見ていたんだ。自分が何かにハマている時ほど周りが見えなくなってくる。それを続けていても何ら解決は見えてこないし、現状をもっと維持させるようになるだけ。
そんな時、何がそのハマった状況から外に目を向けさせることができるのだろう?
その一つには「笑い」がある。医学的にみてもこの”笑い”というものにはポジティブな効果があるようだ。
映画の中でパッチは心を閉ざした患者たちに、ちょっとした笑いを演出することによって心を開かせ、人々に笑顔をもたらせた。
その映画の中のある場面で出てくる”ハロー実験”というものにはうなずかされた。「通常の条件付けを変えると、異なる反応を得られる…」 深刻な面持ちの見ず知らずの通行人に「ハロー!」と話しかける。するとほとんどの人が笑顔で返してくる。それに、それを続けていくうちに人々の笑顔での反応の時間が早くなるのだと。
ハマっている人を見つけたら、声をかけてあげたらいい。そこから外に目を向けることができるかも。
少しでも明るい気持ちになれたら、そこから光が見えるのでしょう。そして、新たな世界が見えてくる…
笑いは心を開くためのひとつのキーワードなのでしょう。
妻に感謝!
(2001/01/25)
よく20世紀を「戦争の世紀」などと表現することがある。たしかに大戦や紛争もろもろと戦争だらけだったと思う。しかしながらこの20世紀を通して見てみると、私たち人類は少しずつながら確実に意識的な進化をしているように思える。
「分離」から「統合」へ。ほんとうの私たちはひとつなのだ。
「分離」の観点に立った行動は私たち個人や人類にとっても悲劇につながるようだ。
利己的な行動を追求していけば、自ずと分離の観点に至っていく。自分さえよければ人はどうだっていい…
それが国家的になっていけば、自分の国家のためならば、他国の不利益なんてどうだっていい。そして他国の人の命だって… それに、こんな考え方もあるだろう。我が国が絶対に正しい。それ以外は正しくない…
そうして戦争が正当化されている。戦争という「自らの正しさ」の名の下に、人殺しさえも賞賛され得る行為となってしまう。
他人批判をいつまでしていてもそこからは何も生まれない。「分離」から「統合」へ… 一人一人の意識がそんなところに少しずつでも向けば、この世界は前進していくことだろう。
「自分がして欲しくないことは、他人に対しても行うな。」これは最低条件でしょうね。
愛するものを守るという行為から、他への攻撃にならないよう。その攻撃対象の相手も誰かにとってはかけがえのない存在なのだし… それは、その相手だけでなく… みんな… かけがえのない存在なんだ。
みんなに慈しみの気持ちをもって人に接することができたらいいとおもう。これは、自分への忠告とともに…
(2001/01/24)
「幸せはあなたなしにはやってこない。」
自分なくして幸せはやってこないのだろう。なぜならば、自分でその「幸せ」を創りだしているのだから… 同じ出来事であっても、体験するその人それぞれによって、みな違う体験をしている。
ある人はその出来事によって「幸せ」を体験し、またある人は「不幸」を体験しているのかもしれない。
きっと幸せとはあなたのパートナーからでもなく、友達からでもなく…自分の内なる部分から湧き出てくるものなのでは。
誰かに「幸せにしてもらう」というスタンスでは、自らの望む幸せには近づかない。
そして、自分が思い描く現実とそぐわない場合には、さらには相手に対する怒りやそのたネガティブな思いが出てくるのではないだろうか。
意識的に幸せを感じるようにできたら、それは幸せかも…
また、経験することは”感じる”こと。”感じる”ことなしに経験はない。
頭で考えている時というのは感じることができていないとき。そんな時にリラックスして思考を解き放ち「今」というこの一瞬を意識的に幸せに感じてみるというのはどうだろうか?
自分で創るスタンスでいれば、一歩進んだ未来が見えてくるのではないだろうか?
それと同じように「不幸」も自ら創りだしているのに気づくこともあるだろう。
(2000/12/28)
日本人の多くの心の中には結構根強く”根性論”をベースにしている考えが多いように感じる。
さて、この「根性」を辞書で引いてみると、(1)身に付いた性質。心の持ち方(2)強い精神力<集英社ポケット国語辞典より>とある。また、私なりに漢字の意味から勝手に解釈してみると、根っこの性(さが)。性(さが)という意味は生まれつきの性質とか習わし。根性というのは生まれつきもっている本質みたいなものなのだろうか…
まぁ、意味をどう解釈するか?ということをどうのこうのと言おうとしているのではない。
なんというか、風潮といおうか…
「根性でなにかをする。」ということが、多くの人々にとっての美徳として受け入れられているように感じることがある。
これと付随して、「苦労の果てに成功がある…」とか「これだけの苦労をしてきたのだから成功したのだ。」と賛美する見方もあるのではないか?
一方、一攫千金を夢見たり、ラッキーな人を羨んだり…または「あんなあぶく銭は…」と批判してみたり。
でも、そういう現実を望んでいるのも人によっては確かなことではないだろうか?
「苦労しなければこうならない・・・」という信念が、そういう人の体験する現実を創り出しているのではないだろうか?
良い悪いということは別として、「楽に手に入れることができても構わない…」という気持ちも持てたら、いくらか気楽にもなるのでは?なんて思うことがある。
でも、努力することが好きな人はそれをしたいからしているのでしょうけど…
ひとりごとでした。
(2000/12/25)
人生には不思議な巡り合わせがあるもの。この話は10年くらい前に、元在籍していた会社の人から聞いたものだ。
会社を定年退職したある60歳代の男性。彼は、会社に命を捧げてきたといっていいほど、仕事中心の人生を歩んできた。家族よりも仕事。休日といえば子供と遊ぶよりも仕事がらみのゴルフ等。仕事優先の人生を送ってきた。
しかし定年退職とともに、彼はその生活から離れることになったのだが…
いままでの疲れが出たのか?原因不明の身体のあちらこちらの痛みに苦しむことになった。特に腰痛はひどかったという。その他にも心の面では、生きがいをなくしたかのように、気持ちが委縮してしまったような感じであった。
おまけに家族からは、いままでの行いのつけが回ってきたかのように、お荷物扱いされ寂しい毎日を過ごしていた。
そんなときに、友人(この友人というのが、かつて私が在籍していた会社の人)がらゴルフに誘われる。
しかし、彼は身体の不調のことなどを話し、一時は断ろうとした。しかし、せっかくの誘いだったので、誘いを受けることにした。「きっと、コレが最後のゴルフになるんだな。」と思いながら…
ゴルフ場に着き、スタート前の時間を友人達と話しながらいると、飼い主を探しているのか?まだ子供っぽい犬(雑種)がうろちょろとしていた。しばらくするとしきりに彼の周りにまとわりついてきて、しっぽを振って顔を見上げるのだ。
彼:「どうしたんだろうかね?この犬… 誰かが連れてきて迷子になっちゃったのかなぁ?」
友人:「あー、かわいそうに…」
彼:「アナウンスしてもらおうか?」
友人:「いや、そうじゃないんだよ。捨てられたんだよ。」「無責任な飼い主がゴルフに来たついでに捨てて行くんだ。」
彼:「そうなんだ...」
友人:「本当にかわいそうなんだけど、この犬もきっと今日一日の命なんだ。」
彼:「なんで!?」
友人:「捨てる飼い主は、ゴルフ場に来る誰かが拾って飼ってくれるんじゃないか…と少しの期待をもってそうするらしいんだけど…」「で、ゴルフ場に勤めている人に聞いた話なんだけどね…」
と友人はやりきれないというような表情で話し出したそうだ。
友人:「(その)ゴルフ場には夜になると野犬が山から下りてくるんだって。そこで、捨てられた無抵抗な犬は野犬に集団で食い殺されちゃうそうだ。」「ゴルフ場の職員はその悲惨な痕を本当に辛く思うと話していたよ。」
彼:「・・・」
彼は、何とも言えない腹立たしさを覚えた。
しかし、スタートを知らせるアナウンスがあり彼らのグループはその場を後にする。
コースを回るうちスタート前のことは忘れ、久しぶりのゴルフを満喫した。しかし身体の痛みはひどいものだった。また感慨深い思いでもいた。「最後のゴルフになるかもしれない。」
そんな一日を過ごしシャワーを浴びてでてくると、ふと朝に見た犬のことが気になった。あたりを少し探してみると、その犬はいたそうだ。すると、一目散に彼の元に駆け寄りしっぽを振った。
その時に、どうしてもこの犬を連れて帰ってやりたいと強く感じた。そして彼はゴルフ場の職員にその旨話したそうだ。
すると、その職員は、彼の友人から聞いたことをそのまま彼に話したそうで、ぜひそうしてあげて下さいと言ったそうだ。
こうして彼はその犬を連れ帰ることになった。
しかしその後、家族とは一波乱あったそうで… 辛うじて飼っても良いということにはなったが、家族は一切協力はしないし、一切の犬の面倒は自分で見ることに…
犬を飼うとなれば、当然散歩が日課となる。それからの彼と犬の毎日が始まる。
その後どれくらい経ったか?友人の元に彼からのゴルフの誘いの電話が掛かってきたという。それもとってもはつらつとした元気そうな声で!
ゴルフ場で彼から聞いた話によると。
犬との生活が始まってからというもの、規則正しい毎日を過ごし、散歩という適度な運動が良かったのか、彼の体調はどんどんと改善していき、以前よりも健康になったと。また、さらに犬を通して家族との関係も改善され、幸せな毎日を過ごしているという。
彼は、「どんな出会いで人生が変わるかわからないねぇ。あの出会いがなかったら今の自分はどうなっていたんだろうか…」とその出会いの不思議さを語っていたという。
本当に偶然ってないのかもしれない…
そう、その時に痛い身体をおしてゴルフに行ったのも意味があったのだろうし、犬と出逢ったのも意味があったのだろう。
どんな出会いであれ、たんなる偶然ではないのかもしれない。袖ふれあうも他生の縁...なんていうけど。
この話を思い出し、今、これからは今まで以上に出会いを大切にしていきたいと思った。
(2000/11/27)
「良い子」「良い人」は世に多くいるが、表の顔と裏の顔を持つ「良い子」「良い人」も多くいるのではないだろうか?
時に世の中を騒がせるとんでもない事件を起こす人がいて、近所の人や同僚などに彼らの人物像を聞いてみると、一様に「本当にいい子(人)で、まさかそんな事件を起こすなんて考えられない!」と…
私たちのひとりひとりの中には、この「良い人良い子」はないだろうか?
いい人でありたい…という気持ちがどこかにないだろうか?
私たちの心の中には”装い”がある。「私はこういう人でありたい。」という以前に、その裏側の顔を持っている。そんな自分を隠そうという意図の下自分自身を装うということをする。装われた私。
「私はいい人だ。」
その裏には、そんな事を言っている自分自身に背き、偽り、自信をなくしている影に隠れた本心の自分がいる。「私は良い人ではない…。でも…。そうでなければいけない。」
そうやって自分自身に偽り、疲れ、ストレスを溜めてゆく。
それが溜まりに溜まると…
さて、どうなるのだろう。
”ありのままの自分自身”でいることをやめてしまうと、どうなるのだろうか?もう、おわかりだろう。
楽になりたければ、偽ることをやめて、「正直」になること。
もう、人の為に生きるのはやめてみてはどうだろう。
まさに”人”の”為”=偽り
偽ること、嘘を突き続けることは自分の”為”にはならない。
(2000/11/20)
変なタイトルですが… 私の小学生時代(5,6年生)の担任の先生について、なんだか話してみたくなったのでここにこうして書いています。
さて、彼(当時50歳代中ば)I先生についての紹介、そして言動・エピソードをいくつか紹介してみたいと思います。
I先生は独身、頑固一徹、すぐに怒る、規則や生徒の生活については本当に厳しい(うるさい!)人でした。
給食に関しては執着以外のなにものでもないと思われるような強い信念を持っていました。”もののない時代”に育った彼にとっては給食を残すなんていうことは「とんでもない!」ことなのだった。
給食は絶対に残させない。胡瓜とトマトが食べられないY君、Sさんはいつも残されて給食を食べていた。それも午後の5時間目、6時間目は授業をしながら給食を食べさせ、授業が終わったあとの部屋の掃除の際にも誇りが舞い上がる中、食べさせ、放課後は5時まで残して食べさせるというくらい徹底していた。
子供の頃には、I先生のことを、ただ怖いとか厳しいという見方しかできなかったが、後になって思えば”価値判断”のかたまり、それも教師というある種の権力をつかった”押しつけ”である。
しかし、彼は「君たちのために…」といつもいっていた。それに「今はまだわからないが、きっと後になって、君たちは私のことを『いい先生だった』ということだろう」とも言っていた。
しかし、私は30歳過ぎの今になっても、彼のことを良い先生だとも、悪い先生だともおもっていない。
給食以外にもいろいろな価値観を私たちに押しつけ、強制していた。
社会にあわせて生きていくためだけにかれは生きたようだ。彼は定年を目前にして心筋梗塞で亡くなった。
(2000/10/26)
先日、9/19の火曜日にヒマラヤ聖者のヨグマタ(相川圭子さん)に会ってきた。
会ってきたと言ってもVOICEの2時間ワークショップ<講話とダルシャン>に参加したわけだが…
それに参加するにあたっては、これにはなぜか不思議な巡り合わせがあるような感じがした。
その頃、私の心の中では、あることに意識の注意が固定していて、穏やかでない状況が続いていた頃。
自分をやや見失いつつあったそんな頃、つまりワークショップの数日前、何気なくVOICEからのワークショップ紹介のレターを見ていたところ、「何だかわからないのに気になる!」という不思議な感覚があり、「これはきっと、行けば何かが起こるのか?!」と半分何かに依存するような落ち着かない気持ちと期待半分で申込の電話をしました。それは前日のことです。
さて、会場に着くと4〜50の席が用意されていた。開始時間にはほぼ満席となり、弟子の方からの説明とヨグマタの紹介がビデオを交えて行われた。正直なことをいうと、このワークショップに参加するまで、ヨグマタに関することは何も知らないに等しい状態でした。ビデオでの紹介が始まると、「すごい人なんだ!」と感心してしまう。ヨガの最高の境地に至った聖者なのだ。(インド政府公認の聖者だそうです。)
紹介が終わるとヨグマタが静かに登場した。物静かな雰囲気を漂わせている。
見た目は普通の日本人のおばさんという感じだが…(ごめんなさい)
まずは、チャンティング。マントラをみんなで唱える。
「アーオームゥ、、、ナーマーアァ、、、シーバーアーアーァーーェー・・・」「オーウームゥ、オーウームゥ、オーウームゥ」
数回唱えるとなぜか部屋の波動が変わったような感じがし、また知らずのうちに自分の呼吸が深くゆったりしてきているのを感じた。
講話が始まり、いろいろな観点からの話を聞いていると、私がやっている「アバター」でもいわれていることと一致することがあまりに多くあることに驚きました。まず大きな一致、「すべては自分が創っているんですよ。」
私は、「あぁ、やっぱりそうだ」と心の中でつぶやいていた。また他には、例えば、何か嫌な出来事に対してそれにいつまでもこだわるのは苦しむだけで、早くそこから抜け出し、新たな視点からそれを見てみる。と…
「「財布をなくした」としたらね、そうしたら、新しい財布が自分の元に来る、そしてなくした以上の新たなお金が自分の元にやってくると思えばいいじゃない。」という感じの語り口で、なんだかホッと方の力が抜けていくようでした。つまり観点のおき方ですね…
もちろん、他にも多くの話があり、深く納得できるものばかりでした。
人にはそれぞれ出会いがあり、その時々の体験があり、さまざまな経験をしている。そして、それは偶然ではなく必要なタイミングで起こってくるようです。
私も同じく完璧なタイミングで経験しているのだ。
聖者ヨグマタとの出会いは、きっと私にとって、「すべては自分が創り出している」という宇宙真理ともいえる信念を揺るぎないものにするための意味があったのかもしれない。また、他にも含まれていることだろう。この先、日を追うにしたがって何かの気づきがあるのかもしれない。
最後になりますが、ヨグマタについてのご紹介をしておきましょう。
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「どんな過去生をおくっていた縁か、ヒマラヤに住む聖者ハリパパ(年齢は400歳に達するともいわれている)の、直接の教えのもと修行を修め、日本人て初めて聖者の域に達した「∃グマタ(相川圭子さん)」。彼女は5日間、座位のまま、まったく「飲まず、食わず、呼吸せず」の状態でおこなう「アンダーグラウンド・サマディ」(土の中の閉鎖空間でのサマディ状態)をなすことのできる世界でも2名(ないしは3名か)しかいないマスターです。サマディは、世界平和と浄化のためにおこなわれ、その場には祝福と浄化のエネルギーが∃グマタによってもたらされます。その祝福を得る為に、毎回何万人という人々が集まります。この春にはインドにて’91年以来13回目の土中サマディが公開され、日本からも10余名が参加し、祝福の涙を体験しました。」 紹介紙面より |
ヨグマタホームページ
http://www.yogmata.org/
(2000/09/21)
人生は誰のためのものなの?こんな事を自分自身に問いかけてみたら…
「自分のためのもの」と答える人はきっと多いでしょう。
しかし、他人(ひと)のために生きること、他人に合わせて生きることを選んで生きている自分も同時に発見できたりはしないだろうか? やりたくもないことを、我慢してやったり… そして自分自身に納得させる。「そう、しかたないんだ。周りとうまくやっていくためには。」「後々のことを考えれば…」「世の中はそういうものさ。」
しかし、その先には… 自分も我慢しているのに、アイツが好き勝手なことをやっているのは許せない!
自分はちゃんとしているのに、彼は和を乱すような行動をする!そして、他人批判が始まる。
自分が勝手に制限をつくって勝手に我慢しているという行動は、同時に他人の行動に対しても同じ見方、価値判断をしてしまうことになってしまうのではないだろうか。それが、さらなる苦しみを創りだしていく。
自分が行動する際に自分に問いかけてみてはどうだろう。この行動は誰のためのものなのか。
(2000/09/11)
「人生はゲーム」なんて言葉をここのところよく耳にしたり、目にしたりする。
もし、本当にゲームだとしたら… 私たちは、"人生ゲーム"の単なる駒だとしたら…
じゃ、ゲームをしているのは誰? そう、私だ。
自分がしたいことだけをする。これの何がいけないのか?
楽に苦労もせずに毎日を過ごす… これの何が批判されなければいけないのか?
自分を他人に合わせること… これにどんな意味があるのか?
"生きる"っていったい何なんだ?
・・・
私は社会意識の中に常に身を置き、それが当たり前のようにして生きる。
制限だらけの中で… 堪えながら、
そのくせ、自由がないと嘆く。
無感動の日々、そして疲労がつのる。
今いる自分が"幸せでない"と感じている私。
自分が自分らしく生きるには、やりたいことをやることではないだろうか?
自分が今、本当にしたいことは?… ちょっと考えを巡らせてみると…
途端に気持ちが、いきいきとしてくる。
私が大好きなミュージカルがある。それは『RENT』。
このミュージカルを何度も観た。そのたびに新しい発見があった。
最近はこんな気づきがあった。
すべては”借り物”なのかもしれないよ。この身体も… この人生も…
『RENT』のフィナーレ。その中の歌詞から…
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未来なんてない、過去なんてない
今この瞬間が最後じゃないことのに感謝しよう
ここには私たちしかいない
人生を我がものにしたいのなら
後悔はしないこと
他に道はない他にやり方はない
あるのは今日という日だけ
ぼくが名声を失ったとして誰か気にするだろうか
明日までぼくは生きられるだろうか
こんな悪夢を切り抜けて?
今しかない
この場所しかない
愛に身を任せよう
でなきや恐怖に負けてしまう
他に道はない
他にやり方はない
あるのは今日という日だけ
あるのは今日という日だけ
あるのは今日という日だけ
わたしは死んでしまう
あるのは今日という日だけ
-*-*-*-
今日を精一杯に生きる、楽しむ…
いや、一瞬一瞬に向き合うこと。
過去にも未来にも囚われずに。
それが、幸せにつながることを… 私は知っている。
(2000/08/30)
ノルウェー人の作家、ヨースタイン・ゴルデル著の『ソフィーの世界』。
この本は世界46か国で翻訳され、1,500万部の売り上げを誇っているという!
実は僕はこの本を読んではいない。でもつい最近、映画『ソフィーの世界』を観てきた。
哲学が映画になるのか?などと様々な意見もあったらしいが…
難解な部分もあったけど、なかなかの素晴らしい映画でした!
「あなたは誰?」こんな言葉から始まる。
さて、自分自身に問いかけてみたら?さぁ、なんと答えるのだろうか?
そう「私はいったい何者なのだろうか…」
もしかしたら、コレを知るために生きているのかもしれない…なんて考えたりもする。他にもいろいろな考えがでてくる。
その考えの先には、とらえどころが無いくらい深く、拡がりのあるものがあるのかもしれないし、いたって単純なものなのかもしれない。
それぞれの人が、その答えを持っているのだろう。
そして…
「世界はどこから来た?」
んー、どこから来たのか? これについても、人の数分の答えがあるのかもしれないが、私の答えは…
世界は自分の中から来ているのではないだろうか?
「存在するかしないか…それが問題だ。」 ・・・ このフレーズがいやに気になる。
存在の定義… いや、定義とは? じゃ、信実は?
私たちは、自分が"今、体験している世界"を、自ら存在させているのではないだろうか?
今、こうして一人でキーボードを叩いているとき、私の意識の中には目に前にあるパソコン、ディスプレイ、キーボード…と、とても狭い範囲のものしかないのだ。この時、自分の家族、そしてあなた、日本は… 存在しているのだろうか?
そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
「ソフィーの世界」という映画を一度観たくらいで、哲学に触れたことになるかどうかなんてわからないけれど、観点についての考察が面白いと思えるようになっている。なんだか、胸の内側がうずくような感覚があり、新たな"何か"が芽生えてきたような感じがしてきた!
自分を見つめる良い機会になったのかもしれない。
ゴルデル氏の後作著書『マヤ』の翻訳がなされ、9月には日本でも発売予定だというので楽しみ…
(2000/08/24)
時々刻々と様々な情報が出て溢れている。
ちょっと前になるが、17歳の少年による凶悪な犯行が相次ぎ、「なんで17歳が…」という声も相次いだ。
ここで、潜在意識の話に切り替えてみよう。
そして潜在意識からの視点でこの情報というものを見てみるとどうなるのだろうか?潜在意識は善悪の判断がつかないのです。
そして、テレビでは相変わらず人殺し、暴力シーンが当たり前のように流れているのが事実。こんなものを日常茶飯事で見ている私たちの心の中、意識にははたしてどんな影響があると予想されるのだろう?
潜在意識には精密なレコーダーのようにその一つ一つが情報として認識され蓄積される。
私たちは、「信じていることが現実を創る」という法則の中で生き、現実創造をしている。それは気づいている意識(顕在意識)であれ、気づいていない意識(潜在意識)の中にあるとしても。ましてや意識の世界はすべてに繋がっている。大いなる一つである。私たち個人というのはその大いなる一つの一側面にすぎない。そう考えると「思いは必ず通ずる」なんていう言葉はむしろ当たり前とさえ言える。
さて、潜在意識にプログラミングされた情報はどうなっていくのだろうか?
みんながみんなというわけではないが、表立った影響が出ないとも言い切れない。
「人を殺してみたかった。」…この言葉は、電車の中で見ず知らずの中年男性にハンマーで殴って殺人未遂で逮捕された少年の言葉だ。非常にショッキングな言葉であるし、動機の言葉としては言いようのない恐怖さえ感じる。
心の中にある意識の断片の中には、人を殺すと言うことに対する情報がなにかあったのではないだろうか?そして、それには潜在意識にプログラミングされた情報がが少なからず影響していると思わざるを得ない。
私自身もテレビの暴力シーン放映に批判する団体の言い分である「青少年の育成に不健全である」という言葉からはピンとこなかった。「なんでそこまで騒ぐんだ?」程度の認識しかなかったのだが…
いま、私たちは何かを始めなければならない。また何かをやめなければならない。
解決しようとすることがあるならば、まずは始めなければ…
私から始めよう。
(2000/08/09)
以下の詞はニューヨーク大学のリハビリテーションセンターの壁には、ある一人の患者の詩が書いてあるそうです。
この詞とは知人を通して出逢ったのですが、”この世界に偶然はない”のでしょう。この時の自分にはとても感銘を受けました。
そして、「自分が体験する現実は…」という答え?とても奥深いなにかがそこにあると感じたのです。
なにかとても絶妙なタイミングで出逢ったような気がしてなりません。
このコメントに出逢ったあなたにも何らかの気づきがあったのではないでしょうか?
あなたがここに来たのは偶然でしょうか?もしかすると、この詞に出逢うための必然ではなかったのでは?
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祈り
大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞とどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべて叶えられた
私は 最も豊かに祝福されたのだ
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(2000/08/02)
人それぞれ、人の数分の価値判断が存在する。
それはそれでなんら問題はないのでしょう。
しかし、その自分の基準を他人の行動に当てはめて使ったときに様々な問題が生じる。
「男は女を幸せにしなければいけない」という考えを持っている人がいる。するとその男は自分の価値基準で、例えば「自分の妻には何にも苦労をさせず、自分が上げ膳据え膳で奉仕するのが相手にとっても幸せなことなのだ。」という。
男は、妻には何もさせず、自分が家事、生活の全てをこなし、妻を幸せという名の下に拘束する。
男は満足だ。「自分は妻を幸せにしている。」
しかし一方の妻はどうなのだろうか?"妻にとって"幸せ?なのだろうか?
妻には妻の"幸せ"の価値基準があり、男が信じている"幸せ"の価値基準とはまた違うものなのかもしれない。
これが実際のところではないでしょうか… そう、価値基準を他人に押しつけた時点で双方にとって様々な歪みが生じてくる。
こんな例ではなくても、私たちも知らず知らずのうちに自分の価値判断の基準を人に押しつけていると言えるのではないだろうか?
他人に対する「怒り」「落胆」「怖れ」…は他人が、またはその対象が自分の価値判断の基準に当てはまらなかったときに生じている。
一つの提案として、様々な観点で物事を考えるということが、大切ではないかと思う。
そうすれば、自分が予想する結果も多く考えることができるからだ。
どうでしょう…
(2000/07/21)