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days
共存のためならば…(2005/05/30)![]()
日本人としての誇り(2005/04/04)
フォトリーディング講座体験談(2005/03/24)
ただあること(2005/03/09)
なにが大事なことなのか(2005/02/28)
手放すこと(2005/01/31)
時間の密度(2005/01/28)
年のはじめの(2005/01/03)
2004年という月日をふり返る(2004/12/31)
食と健康(2004/12/28)
恐怖支配(2004/11/29)
忍耐力のなくなった日本人、そして権利と義務(2004/11/23)
ふとした幸せ(2004/10/18)
ひふみの食べ方(2004/10/17)
発展進化の意味と行く末(2004/09/09)
華氏911(2004/09/02)
私たちの食生活と食物連鎖(2004/08/31)
批判なんて誰にでもできることさ(2004/08/08)
『世界の中心で、愛をさけぶ 』(2004/08/02)
家族キャンプ(新たな”時間”の観点)(2004/07/30)
眠れぬ夜(2004/07/12)
共存共生と人々の意識(2004/07/01)
わたしのうた(2004/06/24)
生きることと表現(2004/06/21)
MyRoom#10(03/07/02〜04/05/31)
チビとの別れ/バランス/平和な世界をめざすために/集中することと経験すること/夜空を味わう/異常気象??/「私の経験すること」の意味(1)/「私の経験すること」の意味(2)/「傲り」の気持ちは何をもたらす?/私たちの抵抗/靴のセールスマン/一生を幸せでいたいのなら/この年を振り返る/心新たに…/"ことのは"とこころ/すべてなるものとの関わり/怖れに根ざす…/経験の密度を高めるには?/何をめざす?「先進国」/子供が安全に過ごせない世界/キリストの健康法/内省することの意義/再構築/悲しい文化/子供とTV番組
MyRoom#9(03/01/01〜03/06/20)
一年の計は・・・/直観を行動にする/被害者意識/世界に一つだけの花/世の関心・ピースアクション/魂の目的に沿う行動・・・/人を惹きつけることについて/自己本位な行動/人のふり見て我がふり直せ/SARS流行の地を思う/ごみ問題その後…
MyRoom#8(01/07/31〜02/12/31)
<”あたりまえ”のこと/『脳の右側で描け』/青い海と青い空、そして・・・/恐れに根ざすということ/「他者への奉仕」「慈しみ」「感謝」/”あたりまえ”のこと(2)/自然摂理とサイクル/混乱を巻き起こすこと、そして循環/星を見上げること/自分の殻/生と死とを考える/息抜いて、生き抜く/思考と現実/私達に出来ること/時に人は…/地球は今…<急がれる意識の転換>/「今、ここ」にいることとは…/歌の素晴らしさ、本質を知る/無意識とコミュニケーション/「孤立と自立」、ストレス考/「期待と裏切り」と経験との関係/2002年をふりかえる>
MyRoom#7(00/07/21〜01/06/19)
<私の価値判断、あなたの価値判断/祈り/情報の行く末/ソフィーの世界/人生はゲーム/誰のためなのか/ヨグマタに会って/小学生時代の担任/「良い子」と偽りの自分/めぐり会い/根性論/幸せ創り/20世紀…(分離から統合の観点へ)/”笑い”のもたらすもの/「今のままではいけない」症候群/独りではないということ/あなたの喜びが私の喜び/お坊さんの夢で感じたこと/きつねからの秘密のおくりもの>
MyRoom#6(00/01/06〜00/06/23)
<経験して初めて知ること/山田かまち展/シアワセノカタチ/我に返る/心配することの意味/目には目を、歯には…/ダライ・ラマ法王東京講演を聴講して/共時性・シンクロニシティ/私にできること、私にしかできないこと…/正直さの示すところ/幸福論/私/愛/生きること…そしてジョン・レノンのイマジンについて/人生の目的/マナティのささやき/シンクロニシティ/ミレニアム2000>
MyRoom#5(99/07/26〜99/12/28)
<私の1999年/意志と病気告知/与えること、受け取ること/Y2K問題前哨戦??/誰かに常識を語ること/私の結婚秘話(おかしな直感)/私たちに出来るボランティア/直感と現実選択/やってはいけないこと?/何もしない鍼灸師?/私たちの可能性について/治し方〜いろいろ/幸せな現実創造/高次の自己からのメッセージ>
MyRoom#4(99/01/06〜99/06/20)
<夢のシンクロニシティ/出会いと波動/抱きしめる聖人”アマチ”の抱擁
/サイキックヒーリング/素晴らしい魂の遊び人/3度目のクリアゼーション/お経・成仏考/十字式健康法/エイブル・アート/TM(超越瞑想)/七沢温泉 よたび/大雄山への招待/不思議な体験/ものの見方について/1999 <意識の変革>>
MyRoom#3(98/07/03〜98/12/28)
<私の1998年/戦争、またか…/2度目のクリアゼーション/レイキの効果って…/「オンリーワン」の声楽家/京都・奈良への旅/Blowin'
In The Wind/ジョハリの窓/何気ない毎日/七沢温泉 みたび/神様もう少しだけ/『生きる』を思う/地球交響曲<ガイヤシンフォニー>を見て/富士山での話/かごめのメッセージ/時空を越えてきた愛>
MyRoom#2(98/01/30〜98/06/23)
<七沢温泉ふたたび/アマチのダルシャン/クリアゼーション/インドの核実験について/GW旅行記/エイトスターダイヤモンド/波動の湯*七沢温泉/宇宙瞑想パーティ/夢の話>
MyRoom#1(97/11/03〜97/12/31)
<戦争の話/瞑想/レイキとの出会い>
ここ数日、ニュースで、政府発注の橋梁工事にからむ談合事件が取り上げられている。
そして受注側企業の談合に関わった担当者ら14名が逮捕された。
かつて談合に関わったという元担当者に取材してみて、その担当者は何と言ったか。
「必要悪だよ。」とね。
つまり、悪事とわかっていて平気で行っているということだ。
理由はといえば、「まともに競争入札していたら、会社が食っていけないからね…」「共存共栄のためならいたしかたない」と言う。
こんな言葉を聞いて、「まぁ、仕方ないね」と思う人もきっと少なからずいるのかもしれない。
共存共栄を隠れ蓑にしているが、とっても利己的な考えだ。
「自分さえよければ人はどうでもいい」というと聞こえは悪い。
しかし、「共存のため」というと、多少同情を引くようなニュアンスはある。
自分たち企業が生き残るためならば、悪事も平気で行う。
別の言い方をすると、悪事をはたらかなければ、これら企業は成り立たないと言うことになるのではないだろうか?
ならば、そんな悪事をはたらかねば、存在し得ない企業の存在価値とは何だろう?
悪事を働かずに成り立っている企業だってあるだろうに。
これら企業の違いは何かな?
大企業は大所帯で組織の風通しも悪く、フットワークが重い。とうような話はよく聞く。
その状態に甘んじて、このままで何とかしようという固着した観念。
自分を変えずして他人を変えればいい的な…そんな思いも見えるような気がする。
悪事を成さずに、存在する企業になるために!
これをひとまず目標にしてみたら?どう?と言いたい。
最低レベルの目標だと思うけどね。
さて、逮捕者を出した企業は、速くも蜥蜴のしっぽ切りをはじめた。
「談合は担当者が勝手に行っていたことで、社長は知らなかった。」「会社ぐるみの犯行ではない」とね。
いろいろなコメンテータが言う。
「談合は無くならない。」と。
やっぱり変えようとする気がなければ変わらないよな。
自主的には、変えられないのであれば、社会的にそのようなことが行えないような仕組みに変えていかなければならないのかもね。
社会を変えるための第一歩は、なんといってもやはり私たち一人一人ということになる。
同時に、今の状況を作り上げてきた責任についても、私たち一人一人にあるということになる。
アクションを起こす起こさないは自分自身にあるのだ。
なにかできること無いかな?
ブスブス独り言で愚痴ったれてみたって、声は届かない。
国土交通ホットラインステーション
http://www.mlit.go.jp/hotline/index.html
(2005/05/30)
私たち日本人は、日本人であることに誇りを持っているだろうか?
それどころか、なんだか、日本人であることを卑下するような声も耳にすることが多いように感じる。
では、こういう私は日本人であることに誇りを持っているかといえば、自信を持って「そうだ」とは言えないと思うのだ。
心の内には、霊性の国日本に生まれたということを、好ましくは思っているが、どうしてそう思えるのか?と問われれば自信がないというのが現状だ。
ところで、私は、素晴らしい本と思いがけず出会ってしまった。本当に何の気なしに手に取った本だったのだが…
この本を読んだ今、私は、日本人でいることに誇りを持っています。
「さようなら」の意味を知っているだろうか?
「左様ならば…」じゃないの?
じゃぁ、左様ならば?何なの?って…
ここら辺までは思いを巡らした人もいるかもしれない。
そう、日本人でありながら、日本語の挨拶の意味すらよく知らずに使っているということ。
「さようなら」だけでなくとも「今日は」は?とね。
話す言葉がなんたるかを理解するということは、とても重要なことなのだ。
ちなみに、英語の「Good bye」は、GOD BY(ゴッド バィ)が語源だそうだ。「神のそばに」ということ。
神様があなたのそばにいてお守り下さりますように。という思いがある。
日本語の「さようなら」にはこのGoodByeと同じような意図は感じ取れない。
また、日本語の”恩”とは、「因」−原因と「心」−いのち。生命に原因について考えることなのだ。
唐突だけれど、太陽がなくなったら人間はどのくらい生きられるだろう?
答えは瞬時にストップ!なのだそうだ。
生命の源は太陽で、私たちの「恩」つまり命の原因は太陽なのだ。
私たち日本人の祖先は古来、太陽を私たちのの生命の元として大切にし、とても大事にしたのです。
そこから「日の本」という言葉が生まれた。
私たちは、外国に行き、「日本人とは何ですか?」と聞かれたら、答えられるでしょうか?
私たちは日本人はこんな質問を外国の人にしないだろうけれど、外国では当たり前で、その答えも皆もっているのです。
つまりみなみなが自分の国を背負って生きている。
ちなみに、イギリスに行きイギリス人とは何?ときかけば、「ジェントルマンシップを持っていることです。」と答え、フランスに行きフランス人とは何?と聞けば「ボンサンス(良識)を餅、フランス文化や伝統について深い理解力をもっている。」ドイツに行きドイツ人とは?「ジャーマンスピリット、社会の善いことについては喜んで賛同し、悪い面については力を合わせてこれを改善する。」と、答えを持っているのだそうだ。
「日本人とは?」の答えを私対は持たなければ。
日本人とは、「「日本」という時を見ればわかります。私たちの命の元が太陽だと知って、太陽さんの恵みに感謝をし、太陽さんのように丸く、明るく、豊かに生きるのが日本人です。」と。
日の丸の意味もこれでわかるでしょう。
この記事を書いている少し前までは、卒業式シーズンだったわけで。
毎年、話題に上る、卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱問題。
東京都の教育委員は、訳のわからない理屈で押しつけるのではなく、なぜそうなのか?ということをわからせて、その上で、どう考える?としてほしいものだ。そのためには本当にこの本を読んでほしい。
教育者だけでなく、日本人みんなが、知ってもらうと、それだけで、日本は今以上にもっと良くなると想うのだ。
私がこのコラムで書いているのはほんの一部の要約にすぎない。
内容を理解してもらうには、ぜひともこの素晴らしい本を読んでいただきたい。
『日本の心の教育』 境野 勝悟 著 致知出版社 1,200円
クリックでこちらから購入できます。↑(amazonでも5つ☆)
(2005/04/04)
フォトリーディング(PhotoReading)ってご存じ?
何となくニュアンス的には「写真を見る?読む?」と連想するかもしれない。
実は写真とは関係ないものです。おおざっぱに言えば速読講座です。
いや〜、とっても面白い講座でした。速読講座として受けに行ったんですけどね…
役に立ちます。いまも役に立っています。速読以外にも。
先週受講したフォトリーディング集中講座の体験談を下記に載せてみたい。
下記の体験談の内容はその日に記したブログの内容コピーだ。
フォトリーディング集中講座 【第一日目】
今日から3日間フォトリーディング集中講座なるものに参加することになった。講座を申し込んだのは2月のはじめくらいだったか。
『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 ポール・R・シーリィ(著)/
神田 昌典 (訳)
を読んで、「うおっ!コレ本当にできたらすごいなぁ!」と思ったのがきっかけで、資料などを取り寄せ、体験談などを見てみると単なる速読セミナーの域で終わらず、能(脳)力開発的な意味もあるということも興味をそそるものだった。
始まる日を心待ちにしていたが、ついに今日その第一日目を迎えた。
あくまで、いま時点の感想だが…
ん〜これで大丈夫なのかなぁ…という感は否めない自分がいる。
「すっげー!」というのは特になかったな。
内容に関してはお伝えできないものの、3日間でたいがい誰でも3倍以上くらいまでは速読できるそうだ…
これが明日明後日にはどうなるのか??
期待と不安は両方あるのだけれども、[期待>不安]という位置づけだ。
フォトリーディング集中講座 【第二日目】
あーさて…
今日二日目を迎えたフォトリーディング集中講座。
いま、かるく酔っていますわ…
なぜかというと、有志ではありますが懇親会が催されて、楽しくあれやこれやと2時間半ほどわぃわぃといろいろなお話をしてきた次第です。
まぁ楽しかったこと。ちょっとした異業種交流快適な集いになりました。おもしろい!本当にいろいろな人の観点。その職業ならではの裏話なんかも耳にできてよかたなぁ…
これもこの講座の利点の一つかもしれませんわね。
これはさておき、今日はけっこう頭を使ったらしい。2〜3分で本をよむ(見る)なんて今までになかったことだし…
どこいら辺の脳を使っているのやら、いつにない頭の感覚を感じるみたいだなぁ。
今日も、「うわぁ、すげぇぞっ!」ってのは無かったものの、300ページくらいのものならば、30分あれば本の概要をつかめるな。という感覚は沸いてきた。これも進歩の一つなのかな…
まずは小さな進歩をほめてあげるべきなのだろう。
話によると、今日までが坂道の上り坂で、明日から(明日が最終日なんだけど)なんとなくすんなりとくるらしい…
さらに明日に期待してみたい。かるいワクワク感をたもちつつ、明日も楽しんでみたい。
フォトリーディング集中講座 【第三日目】
今日がこの講座の最終日。さてさて…結果はいかに。
単純計算で、少なく見ても読書スピードが3〜4倍はスピードUPした。
それもちゃんと意味が理解できての話だ。
あと、おもしろいのが自分の今必要とする情報だけを短時間でとる方法も身につけた。あとはコレをいかにして使いこなすか。
これからの課題は習慣化することだね。せっかく身につけたスキルも使わなければ意味はない。60冊読むことを目標としているが、これを毎日一冊の本を読んで、2か月でやってみたい。
これだけ続ければ、習慣化するはずだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
フォトリーディング講座受講後の変化。
なんか頭の中ですっごいことが起きていそうな気がするのだ。フォトリーディングした後の頭の中は、「シュワシュワー」と炭酸が脳内にあるような感じがするし、第三の目が内側からポクポクとプッシュされているような感じがするのだ。
それにエネルギーが高まっているみたいでヒーリングする感じがいままでにない感じなんだ。
これ読んでいる人にとっては何がなんだかわからないと思いつつ、書いている(^_^;)ゞ
講座を受講する前に、今までの参加者達の体験談をみてきた。
見たときには意外だったのが、「速読講座だと思って参加したら全く違った能力開発講座のようだった。」という体験談だった。
でも、こうしている今はこの意見は全く意外とは思わない自分がいる。いやぁ〜、これからもっと違った反応も出てくるかもしれないな〜。楽しみ。
そして、今日思うこと。
僕は、なぜか本屋さんや図書館に行き、ずらりと並んだ本を前にすると不思議とワクワクする。これはもうずっと以前からのことだ。
でもでも…実は本嫌いだったのだ。といっても本そのものが嫌いなわけではなく、本を読むことにすごく苦労していたのだ。読みが遅い、集中しない、疲れる・・・と。だから、本の読み始めというのはワクワクする反面ちょっと憂鬱な気持ち混じりで、楽しんではいなかっただろうし、苦労は当たり前のものと思っていた。
そんな苦労をしながら読んだ本も、しばらく経つと内容のほとんどの部分は覚えていないのが普通だ。うる覚えというレベル。
それが、今は違うのだ。
本を読むことになんら抵抗感を受けないし、苦にならないばかりか、むしろ楽しいのだ。
おまけに、内容の理解度も増している。普通の本の読み方をするよりも記憶に残る。
シンクロニシティが起きる。…と、大きな変化を感じている。
よく、人間は脳の数パーセントしか活用していない。というような話を聞いたことがあるのではないかと思う。
まさしく、このフォトリーディングというものはいままで使われていなかった脳の機能の活用をもたらすものではないかと感じている。脳の機能についてはまだまだ未知の部分が多いらしく。ということはどんなことが起きても不思議ではないというとらえ方もあるのだ。
という意味で、活性をはじめた僕の脳は、どんな変化を見せてくれるのだろう。それが楽しみなのだ。
(2005/03/24)
この世のあらゆる出来事は、万人にとって”中立”の立場だ。
私たちそれぞれがこの世界で生きること、これも万人にとっての中立の立場だ。
あらゆるものが、”ただ在る”のだ。
でも、不公平を感じるのはどうしてだろう?
私たち各々の見なし方の問題だ。
いつも、「俺はついていないな」が口癖の彼。
計画も十分に立て、順風満帆に事が運び、いつになく万全の状態。とっても楽しみにしていたイベント。
でも、その当日に限って大嵐となって、そのイベントはつぶれる。
そんな時、こう思うだろう。「あー、なんて自分は運がないのだろう。」「やっぱり俺はついていない。」
でも、たまたまその日に嵐が来た。その嵐は彼に「やっぱり俺はついていない。」という思いを強くさせたわけではなく、やっぱり中立なのだ。
ちょうどよく電車の席が一人分空いていた。そこに座る。
すると、次の駅で、そのシートに座っていた人全てが電車を降りて、そのシート一列に座るのは自分ひとり。
取り残された感じと居心地の悪さを感じる。
でも、電車を降りた人達は、その人を孤独にさせる意図もなく、必要だからその駅で降りただけなのだ。その人達の行動は中立だ。
やっぱり俺はついていないという現実を体験するも、取り残されて孤独を味わうのも、誰がそうしたのかといえば自分なのだ。
(2005/03/09)
精神世界に興味が出始めた頃には、それにまつわる本をとにかく読みあさった。
そして、知れば知るほど楽しかったものだ。
でもいつの頃からか、いろいろな本に出会い触れているうちに、そのぶん疑問も多くなったのだ。
ジャッジするのは自分なのだ。「自分」というところに立ちかえろう。ということで、あまり熱心には精神世界系の本を読まなくなっていたのだった。
しかし、最近またいろいろな本を読み始めている。
これも必要な時期、タイミングなのだろう。そう思っている。
チャネリングの本もかつてはいろいろと読んだが、今回久しぶりにチャネリング関係の本を手に取った。
高次の存在からのメッセージだ。
しかし、そのメッセージの発信者が、高次の存在なのか?高次の存在になりすましている邪悪な存在なのか?判断するにはどうしたらいいのだろうか…
いろいろな人がかつて言ってきた。「チャネリングね…怪しいよ。」「それを信じて、結果ダマされたてるかもしれないじゃん?」「最終的には自分なんだよ」ってね。
そう、確かに最終的には自分なのだ。
だから自分の目でそのメッセージを判断する。いらないものなら捨てればいい。信じたくないのなら自分の意志で信じないという選択をすればいい。
今回チャネリングのとある本を読んで学んだことは、私たち地球人類にとって何が大事かということの一観点だ。
その本で学んだ観点から僕なりに今の地球において、世界各国のしていることは、エゴイズム丸出しと思えてならない。
例えば地球環境対策の京都議定書の批准問題。アメリカは自国の利益にならないということで一方的に離脱。世界一の公害排出国をまい進している。ロシアは批准はしたものの、きわめて打算的なビジネス指向だ。Co2排出の基準値となった年は最悪のCo2排出量であったため、今現在は何ら努力しなくても削減目標をとうにクリアしているのだ。そのあまった排出権を他国に売ろうとしているのだ。
爆弾不搭載とはいえミサイルを他国の領海に落とし、抗議を受ければ、自国の主権だと突っぱねる。それに、「オマエの国がそうでるなら、こっちはオマエの国を火の海にしてやる」というような観点でしかつきあいのできないアノ国。
アメリカとイラクの問題。憎しみ、報復、テロ行為…
私たち地球人は目の前の敵(と思いこんでいる)に躍起になって力を使っている。
自分たちの主張をかざし、お互いに譲らず武力を行使してまでも正当化したい。そんな内戦に明け暮れている国が、気が付けば平和維持という名のもと、大国に乗っ取られてしまう。そんなストーリーはあり得る話して…
実際のところ私たち地球人としてのくくりで見たときには、コレと同じことをしているにすぎない。
私たちには「同じ仲間である」という観点がきわめて薄いように感じられるのだが…
「団結」という言葉が適当かどうかはわからないが、先ほどのたとえの内戦下の国では、敵対する関係の双方の主張がどうこうよりも、自分たちの国の存亡がどうなるのかというほうがどう考えても優先順にの高い問題なはずだ。
この時に敵対するお互いは手を組むことが必要なこととなるだろう。
では、地球人の共通の敵はなんなのだ!?と来かもしれない。
敵という味方がいいとは思わないが、例えば地球環境が最悪な状態になり人類が住めなくなるような状況になればそれはある意味敵であり、それらは同時に自分たちということになるはずだ。
枠組みを広げること、個人から仲間へ、仲間から団体へ、団体から国民へ… そして日本人、アメリカ人、中国人…から地球人へ
私たちは枠組みを広げて「地球人」としての認識をもつことこそが大事なのではないかと思うのだ。
そこではじめて共通の問題について考えることができる。
これは強力だろう。
同時に人類観における敵はいなくなることになる。
良く言われる「世界統一政府」「地球政府」。こうなった時点で、さらに大きな、「地球と宇宙」という観点ができ、宇宙の中での仲間や兄弟達とのコンタクトが生まれてくるのかもしれない。
(2005/02/28)
自分の中で、「〜ねばならない」と思って、また実際にそのように行動していることってどれくらいあるのだろうか?
気が付いてやっているものと、そうでなく慢性化してしまったためか何の気なしにやっているものも含めてみればとても多くの「〜ねばならない」行動をしていることに気づくだろう。
「人生は苦しいものだ」とか「人生は義務を果たすもの」という見方で日々を生きている人にとっては「〜ねばならない」はある意味で当たり前のことかもしれない。そしてそれが苦ではないのだろう。
目的と意図と行動が整合していれば、満足かもしれないが。このバランスが崩れたときには不満や苦しみを感じる。楽しくない!となるのだろう。
ちなみに僕は、少なくとも「人生は苦しいものだ」とか「人生は義務を果たすもの」という見方ではこの人生を生きていない。
たまにそう思うこともあるが、根幹の考え方としては持っていない。
でも、わりと強く思っているのが「意識や霊性を早く高めなければ…」と、けっこう躍起になっていることに最近度々気づくのだ。そしてさらに、意識や霊性を高めるためには楽しくないことをやって、その結果、もたらされるものでは?という変な幻想に捕らわれていることにも気づいてきたのだ。
でも、自分の思う意識や霊性の高い人を想像すると、苦行に耐えて、辛そうな、そして楽しくなさそうな表情をした姿は思い浮かべることができない。
なんとなく微笑みをたたえた、いまここに存在することが幸せに思っているような…そんな人なら想像できるのだが。
何ごともバランスが大切だと思う。
辛いことをやり遂げた後にこそもたらされる喜びや幸福感もあるし、本当に楽しいことやワクワクすることをやっている、その時間を楽しむこともあるだろうし。
そういう楽しんでいる姿を誰かが見て、それを喜ばしく思う人(家族など)がいるのかもしれない。
意識や霊性を高めるという目標は自分自身のことだけれど、とてもいい目標だと思う。
その手段としては、苦行モードを手放すことによって、よりこの目標達成のための力が生まれてくるのではないかと思うのだ。
でもけっして惚けることが目的の安易な道を選ぶことではなく、自分自身が活き活きできるようになりたいのだ。
ここでアファーメーションしてみよう。
「私は毎日をわくわくして、活き活きした経験をしている」
なにか目の前が少し明るくなったような気がした。
(2005/01/31)
「いやぁ〜、時間経つの早いねぇ〜」なんて、誰でも言ったことがあるんじゃないだろうか?
年の瀬なんかは特にね…
時間はいつも、ホントウに同じ時を刻んでいるのだろうか?(感覚という事でなくもっと科学的にという意味で)
どうもそれがそうではないらしいのだ。
ある文献ではこんな話もあるのだ。
テレス・マッケンナ(米)という学者さんの話によると実際に時間は短縮されていて、計測すると現在は一日が16時間くらいなのだそうだ。そしてこの先もどんどん短縮していき、計算上2012年の12月22日にゼロポイントをむかえると!
他の学者も「生活の加速化現象」と表現しているそうなのだ。
これは人類の進化に伴うもので、時間はスパイラル(らせん)状に進んでいるということだ。だから先に行けばいずれはゼロポイントになるということなのだろう。
つまり、かつて24時間という枠で生活していた一日が、16時間という枠に短縮されているということなのだろう。
そんなことになっているのなら気づいて当然だろ?というような声も聞こえてきそうだが…
自分を含めて、全ての物、事象が同じ比率で変わったならば、気づかないだろう。
見方を変えれば、全てのものが1/10の大きさに今一瞬で変化してしまったら、誰も気が付かないだろう。
それと同じことではないかと思う。
最近、とくに時間の流れが速くなったと感じるのは、まんざら上に書いてきたことが嘘ではないように思えてくる。
だから、「現実化が早くなる。」ということもうなづける。
そういう意味では時間の密度がどんどん濃くなっているという見方もできる。
こうなると個人の意識の宇宙的な影響力も増大の一途を辿るということになるのではないだろうか?
個人の意識が集合意識レベルに対しての影響が大きくなるとき、一番に注意したいことは「恐怖支配に踊らされること」だろう。恐怖回避のためのエゴの意識がまた集合意識レベルに影響を与えるからだ。
あの目のギラギラした女性占い師さん…よくテレビに出てくるようになったが、「2005年は未だかつてない恐怖の始まり・・・」などとしょっぱなから恐怖意識を植え付けているようだ。
おなかでゆっくり息をして、「これはどうなのか?」と内なる自己に聴き、こころの目でみてみようではないですか。
そして、時間が短縮されていくのであれば、なおいっそう一瞬一瞬を有意義に使いたいものだ。
(2005/01/18)
「 遣い様では宝の金が、其身亡ぼす仇となる
自然にある物には自ずから霊がある。造られた物には、人の力と魂がこもって居る。
いや物悉く心があり、神の光が輝いている。だから物を粗末にする事は、神を粗末にす扱う事になる。人も物も大切に、生かして使い、生かして働かせねばならぬ。 」
これは、今年元日早々に産土の神社に初詣に行った際にひいた御神籤(みくじ)にある神の教えという欄の言葉だ。
この言葉が常々自分の思っていることと符合していることになにか意味を感じる。
やほよろずの神。
あらゆる物、そして自然の現象にさえ神が宿るというのだ。
この考え方はとっても好きだ。
でも、ある時には自分の甘さから、つい「今日くらい…」とか「次からはちゃんと…」などと意に反した行動をとってしまう事も多々ある。
気づいていながら、本意でない事をやる時というのは、罪悪感を感じずにはいられない。(ちなみにこの罪悪感というのは霊的生長のためには大変良くないらしい。)
また、「人も物も大切に…」で自分自身の行動を振り返り思う事は、特に人に対しては、感情をうまくコントロールできなければ、ひどい扱いをしてしまう事もある。そんなことが何件も思い出される。
その時には自分が正当だ!という思いから強く主張して、その結果相手の心を傷つけた。そして後悔する。
なんど繰り返したことか。
「後悔先に立たず」という言葉。当たり前といえば当たり前なのだが、本当に的を射ている。
後々に後悔しない生き方をするには心磨きがやはり必要かと思った。
いつもいつも自分の感情に振り回されていれば、やはり結果としてはこういう経験を続けるほかないのだろう。
見る人の こころこころに まかせおきて 木末にすめる 月の影かな
そして、御神籤には上の言葉があり、さらに
・・・万事細やかにきをつけて 一度おもいを定めたことはわきめもふらず一心になさい 何事も成功します・・・
そんなんだ。
自分にとっていつも邪魔になっているもの。それが「迷い」なのだ。
迷いを払拭するくらいに意を込めて事を行っていきたいと切に思う。
これが私の今年の目標なのだ。
(2005/01/03)
この年最後の日に、この一年を振り返ってみたい。
今年という年は本当に意味深い出来事が多分にあったのではないかと思う。
とくに災害については、これでもか!というような大きなものが複合してやってきた。
夏の猛暑、大型台風連続上陸、火山噴火、大地震、そしてこの度のインド洋の大地震による大津波。
災害による死者、被災者の数も大変なもの。
そして、なくなった方や被災者の数では語れない、それ以上の多くの悲しみや落胆もあったはずだ。
地震や台風などの自然現象は、私たちの意識と繋がっているのだという。
恐れの意識を持てば、恐れを経験するような現実を引き寄せるし、その恐れの体験がさらに恐怖を生み、引き寄せる。
私たち地球上の人類は大きな因果応報の報いを経験しているのかもしれない。
しかしこの現実にも必ずや意味があって…
困難な状況にいる人々に対してのサポートの手をさしのべること、慈愛の念や共感を持つこともこの現実有ってのことなのかもしれない。
そこの何に気づくかと言うこと。
終末思想なんて持ちたくはないが、なにか意味のあるながれの中にもうすでき入っているように思えてならない。
新たな存在となるためには、膿を出し切る必要があるのかもしれない。
その現れが、自然災害であり、人の心の醜い部分を目の当たりにするような凶悪な事件が起きているのだと思うのだ。
あとは大難を小難にということを祈る方向なのではないだろうか。
悲観にくれたり、恐怖を持って毎日を過ごすことも自由だが、世界の中の自分の今いる位置をしっかりと認識し、心を清く保とうとする働きが大事ではないかと…各々の御霊磨きをただ進めるのみだ。
明日から始まる2005年が世界の人類にとって、いや全ての生命にとって明るく道開く幸せな年になることを願います。
(2004/12/31)
いつの新聞記事だったか…ある地方の大都市でのこんな話。
『仙台市内の小中学校給食 「食べ残し」減らず』
仙台市内の小中学校で、児童生徒が食べ残した給食の「残食」が一向に減らないそうだ。
それも残食率は小学校が15%ちかく、中学校は19%、せっか くの給食の多くが肥料や家畜のえさに回されているのが実情なのだそうで…
給食を「健康な体づくりの基本」と位置付ける市の教育委員会は、残食を少しでも減らそうと子 どもたちへの指導を徹底する考えだという。
市立の小中学校の残食率は95年度以降上昇の傾向にあり、高い割合が続いているそうだ。
残食率は各学校で給食室を調理する単独校に比べ、学校給食センターから提供を受けるセンター校の方が高く、献立別では米飯に比 べ、パンの人気が低い傾向。
残食は多くが堆肥に加工されて校庭や市内の公園の緑化に活用されたり、一部は養豚業者に引き取ってもらったり、中には自前で生ごみ処理機を導入している単独校もあるという。
児童生徒の残食が減らない背景として、市教委は(1)給食の献立と家庭の食事のギャップ(2)短い給食時間―などの要因が大きいとみる。
近年の給食は成長に不可欠な栄養素の多い和食が見直され、煮物や魚料理の登場回数が増えている。「家庭の食事は洋食中心」のため
か、和食ほど残食も増えがち。給食時間は配ぜんや後片付けを含め小学校で45分、中学校は35分が最も多い。小学校高学年や中学校ではダイ
エットを理由に給食を残す女子もいるという。
学級担任や栄養職員の声掛けで残食が確実に減った学校もある。市教委は「健康の土台があって初めて学力も身に付く。食の意義を地道に指導す
るしかない」(健康教育課)と話している。
記事を要約するとこんな感じだ。
まず、時間の問題は多分にあると思う。配膳から片づけまで35〜45分って、短いでしょう!
実質の食事の時間はどのくらいなのかと察することができる。
中には残したくはないけれど残さざるを得ないという子供もいるのではないだろうか?
これが大人になればどんな短い時間だって、無理矢理に腹に入れてしまったりと…こんな子供のころから慣らされてしまえば、早食いが身に付いてしまわないか?とも思う。
また、出された食事を残す事への抵抗感という事については、特に近年の子供達は意識が低いように思う。
食べられることが当たり前。こんなところは子供だけに言えることでなく少なからず私たち日本人の多くに言えることなのかもしれない。(僕は食糧難の時代に育ったわけではないが…)
食に対する感謝心もそこには生まれ得ない。
本質はここにあるのではないかとも思うのだが?
うちでは、正しいか間違いかは別として、食事とは「命」をいただいているのだということを常々言っている。
スーパーに並んでいる肉や魚は「ニク」「サカナ」という単なる食材食品ではないということ。
命を持ってこの世界に生まれてきたものなのだ。
自分がそれらの一口でも食べるということは、まさしく命をいただいていることに他ならない。
もっと、いうならば肉を食す、魚を食す、野菜を食す…いずれにせよ、自分が食すことで死んでいる存在がいるのだ。
それを残すということは、どういうことなのか?ということ。
小手先の対応でなく根本を見直すべきこと。教育委員会が頭を悩ませているのなら教育という見地から食を考えさせるような教育方針は考えられないものか?
(2004/12/28)
恐怖支配というのは最も簡単に人を従わせる方法だ。
周りから見たら、「ちょっとおかしいんじゃないの?」と思えるような教義や主張をしている宗教団体など…
そこの集団の内側にいるとその「おかしさ」がわからない。
恐怖の呪縛に入るとそこからの狭い視野でしか物事を捕らえられなくなる。
いずれ、その恐怖を逃れられるためならば…という視点で行動するようになるのだろう。
自分さえよければ人はどうでもよし。これをすこし大きくしたものが、自分たちの教義に従って修行を行えばいずれきたる大災害から身を守れるのだ。と。だからこの宗教を根心から入信していれば助かると。他の人(つまりその宗教団体に入信していない人)は死んでしまうのだそうで。
ははは…笑っちゃうよね。
でも、これらを本当に信じて熱心な活動を行っているまじめな人がいるのだ。恐怖支配によって。
もちろん、本人は誰にも支配などされていないと思ってのことだが。
拠り所がなければ自分自身が存在しないという考えは、自らの中の神性を完全無視することと同じこと。
もちろん調和の世界の中における自分という意味では、すべてがあってこその「自分」である。同時に「自分」あってこそのこの世界ということにもなる。
恐怖支配の行き着くところは、"全てなるもの"と"自分"を引き離すことなのだ。つまるところ、「自分さえよければ他人はどうでもいい」という観点になる。非常に利己的な存在になる。
ちなみに、恐怖支配する側も利己的なのだ。恐怖支配は自分のいうことを他人に聞かせるということを意図に行っていることがなのだから。まさにその人も利己的だし、支配されている側もいずれ利己的な見方をしていくのだ。
恐怖支配にかからないようにするには、自らが他人を恐怖で支配しないことだ。
波動の法則でも言えること。恐怖の波動はおなじように「恐怖の波動」を呼び寄せます。
(2004/11/29)
少なくとも私の周り…この世の中にはものがありあふれている。
物質世界に暮らす私たちなのだから、当然物質的なものがあって当たり前。
でも同時に霊的な存在でもある。
こんなこというと、なにかおどろおどろした何かをイメージするかもしれないけれど、こういってみてはどうだろう。
私は肉という物質の固まりにすぎないのか?−−−多くの人の答えはそうではないだろう。
さて、もう毎日毎日、テレビやラヂオで流れる消費者金融会社のCM。景気のいい業界なのだろう、その数の多さといったら大変なものだ。慣らされちゃったけれど、昔…といっても7〜8年前まではサラ金のCMなんて深夜にしか見られなかったような気がする。それが朝、昼、夜と流れているのだ。
企業の税金対策にせよ、お客がいるからこの手のCMもどんどん出せるのであって…
消費者金融もすこしだけ昔風の言い方でいえば「サラ金」。そのサラ金の社会的な立場というのも随分変わったものだよ。
昔はさ、サラ金に手を出した!なんていうと、とんでもないことのように風評がたったりしたもの。
「アイツの親父さぁ、サラ金に手ぇ出して〜」なんて噂が立つと、「まじ〜ぃ!!」なんてリアクションがあったりして。
そんな時代はいつの日のことか?いまや、海外旅行に行きたいから手軽に借りるだの、給料前の何かと要りような時にキャッシング・・・とか。本当にお手軽に借金をする風潮になってしまったのだろうか?
お金がないのにも関わらずどうして借金まで海外旅行に行きたがるのだろう?苦労は後にとっておいて、まずは楽しみから??
お金がないなら行かなければいいんだし、お金がピンチの時には節制に心がければいいのではないの?
いつから日本人はこんなにも、忍耐力や節制のできない人だらけになったのだろうか・・・
分相応という言葉があるが、自分の今の状況に見合ったものの見方をしたいものだ。
企業は、自分とこからお金を借りてくれて、利子を付けて返してくれればそれでよし。
「ご利用は計画的に!」だって?−−−とってつけたように言ってるね。
金遣いの計画だけでなく、精神的な部分もひっくるめての自分自身をどのように舵取りするかという計画が必要なのだろう。
物欲の奴隷に成り下がらずに、魂の存在としてもこの世界に生きるようにしなければ…と切に思う。
権利ばかりを主張する現代の子供達。
自分がなにか"やらされる"立場になると、「めんどくさい!なんでオレがやらなきゃいけないの?嫌だよ!」
人のためだとか、みんなでやろうなんていうときに、「自分が働いたら損だ」と言わんばかり。
これらも物欲主義と少なからず関係がありそうなのだが…
子供は親や周りを見て育っていくもの。
(2004/11/23)
「幸せ」はどこからかやってくるのだろうか?
何かをしたら「幸せ」になれるのだろうか?また、何かをしなければ「幸せ」になれないのだろうか?
昨日ふとしたことで、幸せな気分になれた。
四歳になる娘と自転車に乗って二人で出かけた。僕が自転車をこぎ、娘は後部の座席に。
前と後ろで話をしながら僕は自転車をこいだ。
10月のやや乾いた爽やか風はなにか心を洗うのかもしれない。
日常の思い煩いが晴れたような感じがした。
家に帰る途中、ぼくのオフィスによってお茶を飲んだ。
レジ袋がテーブルの上に放ってあったのを見た娘。「ぱぱ、Y(娘の名)が三角にたたんであげるね。」といって△状にたたんでくれた。
その時には「ありがとうね。」と言っただけだった。
その後娘と家に戻ったが、おばあちゃんと遊んでくるといって母親のところに行った。
僕は行く当てもなかったので、オフィスにむかった。
するとテーブルの上には娘が△状にたたんでくれたレジ袋があった。
「あー、こんなことができるようになったんだな・・・」と心の奥深くで感じた。
ま、いってみれば、そんなこと大したことじゃないんだけど、なんだか幸せな気分がこみ上げてきた。
こんなちょっとした幸せな思いが、勇気を与えてくれるように思う。
いま、悩んでいることが妙にちっぽけなことに思えた。
きっとこの小さな幸せは自分が探したんだと思う。それもふとした日常の中に。
(2004/10/18)
かなり多くの人がご存じかもしれないが、『ひふみ(日月)神示』という書物がある。
<<画家であり神道研究家であった岡本天明氏に昭和19年から16年間にわたって自動書記というかたちでの天啓がありそれを綴ったもので、原文は、ほとんど一から十、百、千といった数字、仮名、+や○、ゝといった記号などで構成されており、その解読には難解を極め、書記した天明氏自身も最初はほとんど読むことが出来ず、「自分に憑かる霊だから、どうせたいした事あるうまい」と、そのまま放っておいたとういう やがて、仲間の神霊研究家らの手を借りながら解読作業を進め、事の重大さに気づくまでに1年余り要している日月神示には、今後の予測される日本と世界の行く末、霊界の実相及び地上界との関係、人としての生き方、開運の仕方、病の治し方、そして大峠の後に訪れる「ミロクの世」すなわち天国的調和型理想社会の姿などの重要な内容が、時に具体的、時に抽象的に描かれてる。(中矢伸一氏の著書より引用編集)>>
いままでに何度も書店でも雑誌の文中にも日月神示というフレーズを目にしてきたけれど、それらに関する書物を手に取る機会には不思議なほど恵まれなかった。
その日月神示もわかりやすく解説した著書も多数出ているがそれすら手にすることはなかった。
なんで手にとらなかったか?いや手に取れなかったかと言えば、自分自身にその本や内容を理解できる準備ができていなかったからだと思っている。
幸運なことに、先月、日月神示というフレーズを目にしてからおよそ10年くらいの月日がたったろうか、今それも誰かによる解説書でなく、「日月神示」を入手することとなった。
第三者による解説ではどうしてもその人の主観やフィルターを通しての見解になるだろうし、多観点から見られなくなる可能性があるから、ちょうど良かったのだ。
内容に関しては本当に一言二言では語り尽くせないものなので、いずれ自分の想いも織り込みつつコメントしてみたいと思っているが、今回はそのなかから「ひふみの食べ方」というのを少し紹介してみたいと思う。
「ひふみ祝詞」という祝詞がある。
一二三(ひふみ)祝詞
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ
神示によれば、心の病は一二三を唱える事によって治るのだという。
で、さらに…肉体の病は四十七回噛んで食すことによって治るということだ。四十七回ということは、上にあります祝詞、四十七音で構成されている。祝詞を心の中で唱えながら噛むというものかと僕自身は理解している。
そこでさっそく、ここ一週間その食し方を実践してみている。(僕に特に肉体の病気があるわけではないけれど・・・)
すると、病気がどうこうということの他におもしろい事を発見した。
それは、食事がおいしいのだ!
以前にも良く噛むことについて記事を書いた覚えがあるけれど、それとは別次元の話だ。
ご飯の味、野菜の味、みそ汁の味・・・普段食べているものの味がよーくわかるのだ。見方を変えれば、普段は如何にいい加減に味わっていたかともいえる。
そして、あまり量を多く摂らなくてもおなかが膨れること。ということは少食につながる。もしかしたら太り気味の人には好都合かもしれない。
そんなこんなで、ひふみの食べ方をはじめて一週間。
いいことがあるかと思いきや?・・・
いや、こんな腹痛はここしばらくないというくらいの腹痛が襲ってきた。それも夜中から明け方にかけてだ。うずくまるようにして布団で堪えていた。朝になり、便意をもよおしてきたのでトイレに行くと。
なんだか前日の夜に食べた以上の量のモノがでて…(汚くてゴメンナサイm(x_x)m)
その後何度かトイレに駆け込んだ。
何度目かのこと、出た内容が断食の時に出るようなドロドロした粘りけのある便になっていた。これは腸の内壁に滞っている宿便なのだ。これが病気の元だという説もある。それが出たのだ。
断食を今まで何度かしたなかで初めて出てくるものが、毎日食べている中ででてきたのだ。
これは自分の中では不思議なことだ。
もしかしたら、これはひふみの食べ方と何らかの因果関係があるような気がしてきている。
人によってどんなことが起こるのか、あるいは何も起きないかはわからないが、食事をおいしく食べる一つのコツにもなるのでは?と思っている。
「ひふみの食べ方」、試してみてはいかがでしょうか?
(2004/10/17)
「発展」や「進化」というフレーズを目にするとき耳にするとき、あなたは何をイメージするだろう?
いままで苦労してきたものが何でも簡単にできて、便利で快適な生活だろうか?
東京と地方都市を結ぶ交通機関がスピードアップして何分短縮できたとか?
あるいは?
明治、大正、昭和、そして平成の今の世の中…とこの経過の中で、科学
技術などの進化につれて生活もどんどんと便利なものになってきている。悪い言い方をすれば人間はおうちゃくをしたいがために技術進化を望んだのかもしれない。
そしてどんどんわがままになっている。なんでも便利に、モノは手に入るし、手間暇かけなくても手軽に製品として売っているモノも大量にある。こんな世の中はずっと今までのように、これからも永続するのだろうか?
私たちが今の生活を続けるために必須なのは原油だ。しかしこの原油にしたって有限だとわかっていること。
それでも永続すると?
科学的な技術発展はなされてきたとして、はてさて私たちの意識レベル的な進化はなされているのだろうか?
仮になされているにせよ、科学と心のバランスは大きく偏っているのが現状ではないかと思う。
バランスがくずれすぎれば、崩壊の道を辿る。
この先々…いや今から私たちの霊的精神的な進化が急ピッチで行わなければ、取り返しのつかない事態になるのではないかと思う。
便利な世の中では、その状態に甘んじてしまい、かえって不満がでたり、わがままになってくるのだ。
そこに経済活動がのってくる。
便利なモノは売れるから、便利にする。と同時に不便なモノは売れないから市場から姿を消す。つまり淘汰されてしまう。
供給側は恐れのなかで、あれやこれやと工夫してくるのだろう。
ちなみに恐れとは「愛」に対して逆の要素そのものだ。
そして、人の欲望をあおる広告や宣伝の多いこと。
「新しい技術で…」 「さらにこんな機能がついて…」 「今までと比べこんなに…」と。
いま持っているモノの陳腐化も強調される。
オゾンホールが大きくなって、有害紫外線のため、そのうちに外出できる時間が限られるとの話もある。
そんななかでますます温暖化を助長するような流れは止まらない。それどころか進んでさえいるように思えるのだが…
また、「サービス」という分野をとらえていても利便化がすすsんでいるようだ。
昔は魚を買うといえば、自分でさばいたものでしょう。
でもいま、魚屋さんやスーパーの鮮魚コーナーでさばく前の状態で売っていることはまれなことではないだろうか?
多くの人は魚をさばけないのだ。三枚におろして…なんて簡単に言う人もいるが、多くの人はさばけないのだ。
自分でさばくという人々の技術は間違いなく退化してしまっている。
その他にも失われた個々の技術は多くあることに気づくだろう。
便利さを追求する一方、私たちは(見えない)何かを失っている。
技術進化を行うことは人類の流れであるとしたら、それを止めることはできないのかもしれない。
であれば、技術進化の方向性をおうちゃくでなく愛に基づいて行い、また技術進化のその一方で失われているものに注意を払い、築きあげていかなければバランスは崩れる一方になる。
このまま安易さを便利さを求めていくことが、人々の幸福につながるのだろうか?
以前に比べ不満が多くなっているということは、その逆を辿っているのかな…
欲望を追求することでさらなる欲望を生み出し、それが自己中心的な見地を生み、エゴイズムを喚起してくる。
金銭がらみでの殺人や、裏切りもコレに関係するといっても間違いではないだろう。
目先の幸せ、満足感は薄れるのも早いだろう。
念願の車が手に入ったことで得られる満足感や幸福感はどのくらい続くかなんてたかがしれている。
であれば、長続きする幸福を求める方向を考えて行動したいもの。
それは愛に基づいた行動をすることから得られるものであることが多い。
自分の行いによって誰かが喜んでくれた。これはあとあとまで味わえる幸福感ではないだろうか…
利己主義でなく利他主義。このフレーズが意味するところは大きい。
私たち各人は個別な存在だと思っているのだろうが、大きく外側から見ればすべては一つであって、なおかつ調和されているべきなのだ。
他者にしていることは大きな自分に対してしていることと同じこと。
(2004/09/09)
昨日、念願の『華氏911』(マイケル・ムーア監督)を観てきた。
先に『アホでマヌケなアメリカ白人』(邦題)というTVプログラムも何回か見てきて、マイケル・ムーアという人にも大変興味を抱いていたのでとても楽しみにしてきた。
もちろん、映画自体の前評判も高いというところもある。
感想としては、本当にいい映画だと思った。それは記録映画としての価値だけでなく、政治的な世界への視点を持たせることを喚起する意味だけでなく、人類の行っていることが実態としてどのようなものなのかをあるがままに教えてくれる映画ではないかと感じている。
政府の発表やマスコミなどの報道などを知らず知らずのうちに信じてしまってはいないだろうか?
斜めの見方や裏側からの見方というのはひねくれ者の見方でなく、やってみる価値のある見方なのではないだろうか?
自分自身であるものを疑って見てみる。自分なりの視点、考えで見るということがとても大切だと思う。
先頃、日本の首相へのインタビューで「この映画を見る予定はあるか?」との問いに、「政治的に偏った見方の映画は見る気になれないね!」との一言。
日本の首相の一言としてその言葉には正直がっかりしたが、そのようなコメントを発するその人自体が偏った見方しかできていないということを暗に示してもいる。
偏っていないということは、正反対の見方も視野に入れて見てみるのが本当の意味での偏っていないということではないのかな?と思うのだけど…
『華氏911』はぜひ多くの人にもてもらいたいと切に思う。
戦争の愚かさや、それらが何をもたらし、笑うのは誰か?泣くのは誰か?わかると思う。
でも判断するのも、決めるのも自分。
『華氏911』の内容に対してもまた、斜めや裏の見方をしてみるといいと思う。
(2004/09/02)
まず、「この世で起こることには偶然はない」というフレーズはよく聞くことかもしれない。
狂牛病(BSE)騒ぎに始まり、豚コレラ、そして鳥インフルエンザといった病気がはやり問題になったのはまだ記憶に新しい。
そして、食の安全だとかいった話題がにぎやかしていたのは1〜2ヶ月まえあたりだろうか…
少し古い色の悪くなった牛肉を発色剤を使って赤味を増した状態にして再販していたとか。
「色の悪くなった牛肉なんてお客さんは買わないもの」「だからついお金の為生活の為…」と。
事情もわからないでもないが。
さて、食の安全がどうのこうの業者が信用できるの出来ないのというのは表面的なところだ。
一度原点に戻って、私たち人間の食べるにふさわしいものは何であるかということを考えてみてはどうだろう。
食物連鎖の上に立つ存在は、濃縮されたものを採っていることになる。
元を辿ってみれば、小さなものが食され、さらに小さなものが食され行く先にはざまざまな微生物、ミネラルなどを含むことになる。
しかしながら、環境も目に見えて悪化する今の時代では、ミネラル分や栄養素といったものだけで考えることはできないのではなかろうか。
つまり、環境の中には有毒物質がいたるところに存在し、微生物レベルからそれらを取り入れている。
食物連鎖の上に立つということは、密度を増した有毒物質まで同時に取ることになるということも忘れてはならないのだと思う。
現実問題として、まぐろ、カジキ、金目鯛などは1日にとってもいい量が国の機関からでさえ発表されている。つまり平たくいえば、食べると体に害があるということを暗に示している。
それに肉食生活が当たり前のように定着した我が国日本だけど、もともとは肉なんて食してはいなかったのだ。
肉食をすれば病気になりやすくなることは周知の事実。
肉を食べないと必要な栄養素が取れないというような間違った情報をなんの疑いもなく信じて続けているのだ。
ビタミンB2は豚肉に豊富に含まれているから豚肉を食べましょう!みたいな…
ビタミンB2は豚肉でなくても取れます。
実は人間は動物脂肪を分解する酵素を持ち得ていないらしい。
つまり生物としての人間を考えたときにも、肉食というのはそぐわないのだろう。
また、エネルギーや波動の見地からいえば、食材もまた波動なのである。
人間の口に入る食肉はどのような過程で来ているのか?
育つ環境を見てみれば、早く大きくして金にするという目標の下、ある種動物にとっては決して快適とはいえないような(運動不足や狭い場所に多数の環境でストレス過多)の環境でそだつわけだ。<すべての食肉がそうではないにしてもかなり多くはこんな状況だ>
また特に牛や豚のような高等意識を持った動物は、恐怖という意識を持っている。また動物的な直観で自らが殺生される数日前からその死の恐怖を味わい続けるとういうことだ。
恐怖の意識こそ大変に低い波動であり、またそのストレスというものも非常に低い波動を持っているのだ。その波動を細胞レベルに蓄積する。
それを私たち人間がなんらそんなことを意識するべくもなく当たり前に食しているのだ。波動の影響を私たちは間違いなく受け取ります。
キリストの教えであろうが、日本古来の神の予言書であろうが、肉食はしてはならないと訴えている。
「人は四つ足の動物の死肉をしょくしてはならぬ」のは意味のあることなのだ。
「この世で起こることには偶然はない」
ここ数年の食肉がらみの不安な話題(BSE、鳥インフルエンザ、豚コレラ…)は私たち人間への警告と取ることもできるのではないだろうか?
喉元すぎれば熱さ忘れるようにニュースも生まれては話題に上がり、そして時間の経過とともに忘れ去られたり…
私たちが一連の流れとしてとらえられない環境にあるのは確かにそういえようが、意識して流れを見てみるとそこから導き出せる「なにか」を感じることができるのではないかと思う。
(2004/08/31)
誰かを、何かを、批判ばっかりして、言いたい放題。
言うだけ言って、何らの解決案を出すでもなければ自らが行動を起こすわけでもない。
そんな人をよく見かける。自分にもこういうところは確かにある。
自分の立場があり、相手の立場があり、また双方の関係という第三の要素もある。
そして現実という土台にこれらがのっかている。
自分側の立場からだけものを見て、その観点からもの言うのは簡単なこと。
自分の観点から見た”善策”を施せば、その問題は解決するのだろうか?そして全体は?世界はよくなっていくのだろうか?
こちらを立てれば、あちらが立たずみたいなことにはならないのだろうか…
また、そもそも善し悪しの基準とは?
自分さえよければ他はどうでもいい的な視点もあれば、自他共によい方向にという視点もあるだろう。
時間的な要素でも、目先のことがとりあえず良ければ…と将来性も観点にいれてというような視点も。
こうやって広げていけばどんどん難しい問題となる。
ずっと以前のことになるが、テレビを見ていてハッと目が覚めたような感覚になったことがある。
それはディベート(検索:ディベート)の試合の様子を放映していたもの。(僕自身はディベートのルールも詳しくは知らないし、ちょっと見の話をしているので間違ったことを書いていたらごめんなさい。興味のある方は検索してみてください。)
目玉焼きにはしょうゆか?ソースか?なんていうような別にどうでもいいようなことだったと記憶しているが、新鮮だった。
それは、まず最初の論者が目玉焼きにはしょうゆである。という結論をもって理論立てて述べていく。
「うん、もっとだ」と思えるような納得のいくものだった。
そしてその後、反論の機会が相手に与えられ、その反論についても的確に述べていく。
「ふむふむ」とこれも…
すると今度は「目玉焼きにはしょうゆである。」といままで切々と論理的に述べていたその人が、今度は一転、「目玉焼きにはソースである。」という結論をもって理論立てて述べていく。
これも聞いていると、「うん、そうだな」と思えるようなものだった。
で、何に目が覚めたような感覚となったかというと、まったく相反することについて理路整然と論じることができていることにだった。
つまり敵対する、あるいは全く水と油の問題でも、自分の視点とは違う側に立って考えることができるということ。
これはディベートというあるルールに従って行っているということであるからというのは確かにそうなのだけれど、日常の問題においても、そうしようという意志さえあればできることだ。
「相手の身になって…」とはよく言うが、なにか相手が困っているときに「相手の身になって…」という印象が強かったように思う。しかし、相手が敵であったり、自分とは正反対の立場であったりしても、一度は「相手の身になって…」考えてみるのも悪くないと思う。
両方の視点から見た上で出てくる案や善処策は、どちらか一方的な見方しかしていないときに比べれば、はるかに調和にてらした方向に行けるのはないかと思う。
もう自信満々で、決めつけたものの言い方をする人を見たとき、無性に腹が立つことがある。
自信のない自分にないものを持っている羨ましさからくる腹立たしさかもしれない。
自信があるのはある面ではいいことなのかもしれないが、その自信がものの見方を一方的なものに固定してしまう要素もはらんでいることも忘れない方がいいのかもしれない。
逆に自信がないときはいろいろな面からの観点で見るようにできているのではないかとも思うのだ。
自信があるなし。どちらが良い悪いと言うことは抜きにして、自分の居る位置は自分が決めているということ。またものの見方は固執した見方も柔軟な見方にも自分次第で変えてみることができるということだ。
(2004/08/08)
世界の中心で、愛をさけぶ 。片山恭一氏のベストセラー著書。映画化され観客動員数もかなりなもので人気を博している。
毎月一日が映画の日(\1,000で見られる)なので、これを機会にこの『世界の中心で、愛をさけぶ 』を見てきた。
純愛もので、男が一人で見に行くには多少周りを気にせざるを得ない感じだったが…
でも、もう本当にのめり込むように見てしまった。
映画というのは、いつ見ても同じというわけではない。見たときの環境や、その人それぞれの持つ過去、誰と行ったのか…これらの要素で
映画自体の印象もかわってくる。だから、昔に見た映画を数年経ってテレビで放映されたりしたときに見てみると、「えっ、こんな内容だったっけ?」とか
「お〜、そういうことだったのか!」と違う観点が出てくることが多々ある。
今回この時見た映画も、様々な観点のある中野本の一経過点での話だ。
話はもどって、この映画で感じたこと。
人を好きになるっていいな。すごいな。と素直に思えた。と同時に自分自身の中の悲しさを感じた。
その”自分の中の悲しみ”とはいったいなんだろうか?
この映画の舞台は四国のとある海に面した町、高校生の二人の話だ。それも1969年生まれの二人。
僕は東京育ちと、場所の背景こそ違うもののほぼ同年代だ。当時聞いていた音楽も同じものがあった。
僕は自分の高校生時代を重ね合わせていたのだろう。そしてメインの亜紀と朔太郎の純粋な姿というがとてもうらやましかった。
後悔のような感覚… 後悔といっても、何をやらかしたわけでもない。
逆に何かをやらなかった後悔かもしれない。
人を好きになることになぜか壁を感じていたあの頃。映画と重ね合わせて感じた悲しさは、あの時代を一生懸命生きてこなかった自分への非難であるのかもしれない。
心のどこかで、あの時代は「もう過ぎてしまったこと…」だから意識的にそのことに注意を向けてこなかった、つまり目を背けてきたのかもしれない。
この映画はそれを超越させて、僕の心の日陰の部分に光を当てたようだ。
人を愛する、好きになる、その人のために一生懸命になるっていうことは本当に素晴らしいことなんだ。
自分の心の中心をどこに置くかで、経験はまた違ったものになってくる。
『世界の中心で、愛をさけぶ 』の”世界の中心”を意味深く感じた。
どんな人でも、その人の経験する世界はその人自身が中心人物であって、またその人の経験する世界、つまり世界すべての中心はその人のその時点での心の中心なのだ。
自分のもっていた一つの観点の変わった一日だった。
(2004/08/02)
つい先日よおそ五年ぶりにキャンプに行って来た。場所は山梨県上九一色村、本栖湖畔にある本栖レイクサイドキャンプ場。何度も来たことのあるなじみのキャンプ場だ。
学生時代はキャンプサークルに属していたためほんとうに頻繁に行っていたし、サラリーマン時代も職場の仲間と年に一回もしくは二回の割ででかけていた。今回のキャンプが結婚してからは、また子供が生まれてからは初めてのキャンプだった。そして僕にとっては家族でキャンプというのは初経験であった。
そもそも今回キャンプに行ってみようかと思い立ったきっかけは、電車の吊り広告でふと見かけたフレーズだった。
何の雑誌の広告かは忘れてしまったけど、そこには「子供の自主性を養うにはファミリーキャンプが一番!」というようなものだった。その時はふぅーん…そうなんだ。程度にしか思っていなかったけれど、娘が夏休みの間になにをしようか…なんてことも何も決まっていなかった。
そして娘も幼稚園に入園してからずいぶんと知恵も出ていろいろな工夫をしながら遊んでいるし、いろいろなものに興味を持つ頃だし、キャンプという日常とはまったく違った経験で何かの発見があったり、なにより喜んでくれるんじゃないかと…
そんな思いで今回のキャンプに出かけることに至ったのだ。
行きは交通は順調だったものの、連日35〜36℃もあった猛暑が一転、当日は珍しく雨に見舞われ現地気温が20℃〜26℃と大変涼しい、ちょっと寒いくらいの感じだった。
タープ(雨除けのシート兼日よけ)の設営やキャンプ用具を出したり、食事の準備、支度と雨の中やや大変だったけど、午後からは日も出てきていい感じになってきた。
娘は普段と違う環境にやや興奮気味ではしゃぎまくっていた。
自分から「お手伝いをする」と言ってみたりして、料理の手伝いをしたりと娘にはとてもいい経験になったようだ。
キャンプで家族と過ごしているとふと感じることがあった。普段は家族で過ごしている時は身の回りにテレビやパソコン、おもちゃ等々たくさんあってそれが当たり前の中で生活してると、ものがあったらあったでなんだか時間をだらだらと無為に使ってしまうように思えた。そのくせ時間を気にする相矛盾するようなところもある。
キャンプの一日は人間の持つ本来の時間というものを体感させてくれるようだ。何のことはない、朝になれば日が昇り、夜になれば日が沈むということ。
時計をあまり意識しないでいる時間を経験している中で、たまに時計に目をやると「えっ?まだこんな時間?」というようなことが良くある。ある意味で時間を有効に使えているのかもしれない。
自然の中で流れゆく(体感)時間と、画一的に流れる時間…
画一的に流れる時間(普段当たり前に使っている時間)に、いかに縛られて生活しているかが思い知らされるようだ。
内的な時間と外的な時間ともいうべきか…そんな時間の新たな観点が発見できたようだ。
くしくも、キャンプに出発する前の日はマヤ歴では”時間をはずした日”、そしてマヤ歴での新年最初の日に僕らはキャンプという機会を選び、こんな経験をした。
時間とは何だろう?
人間以外に時間を気にしながら生きる動物はいるのだろうか?
時間を気にしながら家に戻ろうと飼い主にせっつく犬、もう時間も遅いからとさっさと床につく猫…
そんなのは考えられないしきっとこの先もないだろう。
きっと体内リズムに沿った目に見えない時間があり、その本来の自然な時間の中で私たち生命体は本来の機能をもって生きることができるのではないかと何となく思った。
キャンプの話に戻るけれど、帰りに地元の温泉で汗を流しさっぱりして家路へと帰りました。
天気が良ければ富士山の絶景が見られたんだろうけど、それはまた次の機会にということで、また家族でそのうちに行きたいなと思っています。
(2004/07/30)
今年の東京の梅雨は雨が少ない。そして猛暑猛暑の毎日。
関東圏では最高気温が37℃を越える日も!
当然ともいえるように毎夜は熱帯夜になる。
そして眠れぬ夜を…
でも熱帯夜で眠れぬ夜を過ごす人がどれくらいいるのだろう?
東京の都心じゃ諸々の理由から窓を開けたって寝られやしないところもあるし…
多くの人々がエアコンをつけ部屋を快適にして寝るのではないだろうか?
この一見当たり前のことは、さらなる熱帯夜作りに荷担することとなるのだ。
エアコンは部屋の温度を下げて快適にする一方、その取った熱を室外機から外に放出する。
こうして、エアコンをつけていない時よりも、つけている時の方が外気の温度を上げていることとなる。
人家が密集する場所ではこの状況もさらに色濃く表出する。
だから窓を開けて寝られない。エアコンをつけずに窓を開けて寝たいと思う家、人々も室外機の放出する熱のせいでそれがかなわず、仕方なくエアコンをつけざるをえないということもあるだろう。そしてまた一軒、外に熱を放出させる家が増える。こんな悪循環が知らぬ間に起きているのだ。
こんな文をもっともなことと書き記している私も、熱帯夜を心地よく寝たいということでエアコンをつけて熱を排出している一人なのだ。
「袖ふれあうも多生の縁」−−−このような言葉が出て一見無関係そうだけれど、私たちはみな自分の行いが原因となって、自分を含めた全てに影響を与えているのだ。
因果応報というように、報いを受けるからには原因があるということ。
暑苦しくて眠れないから、エアコンのスイッチを押した。この何気ない当たり前とも思えるようなことが、暑苦しい夜をつくり出す原因の一つになっているのかもしれない。
他人事だと思っていることや、自分とは無関係と思えるようなことも、もしかしたら自分自身がその現実をつくるために荷担しているのかもしれない。
一説によると、東京−汐留に建つビル群が海からの風の流れを大きく変えることで、東京や埼玉の気温上昇が起きているというような話もある。
またあるところでは、漁港に新たに防波堤をつくったことで、海流の変化が起き、砂の流れが変わったことで数キロ先沿岸の砂浜が浸食されて無くなってしまいそうだとか…
「あることをする。」そうしたことが他にどのような影響を与えているか?事前に想像しなくとも、想像できなくとも結果作りには手を染めているのだ。
眠れない夜に話は戻して…
僕が子供の頃25〜30年前の夏を思い出してみると(ちなみに東京育ちです)、暑い暑いといったってせいぜい30℃くらいなもので、35〜37℃なんてまずなかったこと。夜になれば涼しい風が吹いていた。そのように記憶している。
今と比べれば緑も多かったし、表出している土の面積も多かったのだろう。
車の数もおそらく変わっているだろう。
私たちの言う文明社会が進化?して生活が便利になる。それが進ほど、一方では住みにくい状況や苦しみをつくりだしているようだ。
でも利便性を求めたりすることが当たり前になっているような流れのなかで、弊害として公害問題など環境悪化して肉体が耐えられなくなると、都会を離れて空気のきれいな場所に引っ越したりする。またいずれその場所も開発が進んで住みにくい場所になるかもしれないが…
人それぞれ求める環境も違うかもしれない。しかし、個人以前に人間であるわけだし、当然人間としての適した環境というものもあるはずだ。
便利な環境になれてくればそれが当たり前になって、10年、20年前の生活環境に戻そうなどと言ったってなかなかうまくいくものではないだろう。
しかし一度立ち止まって、目先のことだけでなく、過去から今までの流れや、この先未来を視野に入れた観点を持つことでどう自分が歩んでいくのかということが見えてくるのではないだろうか?
地球温暖化は、人ごとではすまされない話なのだ。
個人個人の意識変化にかかっているといっても大げさではないだろう。
当然私自身も含めて、意識を変えて対処行動することが必要だと思う。
(2004/07/12)
年に二回の祓いがある。
6月の終わりに行われる夏越し(なごし)の祓いと年の終わりに行われる大祓だ。
この度は夏越しの祓いで、これから苛酷な夏に向けて、体力が落ちたりする前に悪いものをおとすということの意があるそうだ。
我が家の近くの天祖神社では毎年しっかりとその神事が行われて、ここ数年は家族そろって参加している。
形代(かたしろ)…<人のかたちに切った紙>で体をさすり、それまでの病厄災罪穢れをうつし、最後にその形代に息を吹きかける。その形代を神社に納め、お炊きあげしてもらいまがごと罪穢れをお祓いする行事なのだ。
宮司さんや神官さんが神の御前で祝詞をあげたり、巫女さんの舞いを奉納したりと式の次第に則った神事がとり行われ、最後に参加者皆でちの輪をくぐるのだ。
こうして昨日6月30日に夏越しの祓いを行い、神社で募った人たちが本日、お炊きあげした形代の灰を川に流しに行く。
まさに水に流すのである。
私たちが日常使うこの日本語の中にも「水に流す」という言葉がある。
嫌なこととか、悪いことを綺麗さっぱり水に流し、後くされ無く毎日を生きようという建設的な意識なのだろう。
終わってしまったこと、済んだことに意を向け続けて固執し、執念深く誰かを恨んだり…
そんなことをしたって何の解決の手立てにはならないし、それどころか自分自身を自らが貶める結果となるだろう。
そういった意味では意図して水に流すということをすべきなのかもしれない。
「問題に目を向けないで、解決すべくその方向に目を向けなさい。」とこんな言葉が浮かぶ。
くよくよ、メソメソ…
そこに意を向けているうちは、その経験をすべく自分自身の周りをその意に沿った状況を創り出すのだ。
解決を望むのならば、”水に流す”を思い出してみるといいかもしれない。
そんなことをふと感じた今日でした。
そして、7月にはいっては、皆さんもご存じの七夕がある。
天祖神社では境内に笹がきをいくつか用意し、短冊とペンまで用意してくれて誰でも自由につるせるようになっている。
本日の朝拝(天祖神社で月初めに行われている)で七夕についての宮司さんの話があった。
織り姫彦星が年に一度の…という方がどちらかといえばテレビなどでのコメントや世間では話に上る機会は多いだるけれど、笹がきに願いをしるした短冊をつるすという風習もある。
思えば、小学生の頃まではしていた記憶があるが…いつの間にやら。学校の行事なんかであるものの自分でわざわざ笹をとってまではやらないという人が多いのでしょう。
で、話は戻ると、宮司さんが過去から今までの七夕で、笹がきにつるされている皆の書かれた短冊の願いを見てみると、7割の短冊には自分自身の個人的な願いではなく、自分以外の人のことについて書かれているということだ。
例えば、家族の健康と幸せを願うもの、誰かの病気快癒を願うものなどで、3割程度が自分の願いらしい。
そのような話だった。
こんなところにもある意味人々の意識が集約されているのだろうけど、7割の人々は周りの人々の幸せを願っているということだ。いろいろと不信やおそれの渦巻く世の中にはみえるものの、人の意識の中に皆の幸せを願う気持ちが存在することにほっとするところもある。
自分自身も心の持ち方を意識して、平和な世の中が日々創造されるべく、人々が共存共生することを願っています。
(2004/07/01)
この前の回のコメントで、ねねさんのヴォイスヒーリングライブに行ったときの話。
とってこ心に残った話があったのでシェアさせていただこうと思います。
アフリカには本当に多種多様な文化や風習を持った部族があるが、ある部族ではその部族の民の誰にも皆、自分自身に歌を持っているという…
女の人がお年頃になって恋をするようになり、本当に心から「この人とのあいだの赤ちゃんを授かりたい」と思った時から、その女性は歌を作りはじめるのだ。心の中で…ハミングしたり…といろいろなのだろうね。
そしてその男性と結ばれ合うあいだ、その歌を歌う。
そして、幸いにしてその男性との子を宿したなら、お腹の中の我が子に歌って聴かせる。
そのこの誕生までのあいだ、母となるべくその女性は村のみんなにその子の歌を歌って聴かせる。何度も何度も。
そう、その子の歌を村の人一人一人みんながおぼえてもらうまで。
そして、その子の誕生時には村人が集まり、その子の歌を歌って祝福する。
結婚のお祝いでももちろんその歌を歌う。
その子の人生の中でのお祝い事などには必ずその歌を歌って祝う。お祝いの時だけではない。
悲しい時、辛い時…その子の親が、周りの人が、また本人も自分自身の歌を歌って、勇気づけられたり、希望を持ち直したり…
この村の民ひとりひとりに自分だけのオリジナルの歌があるのだ。
自分の歌が、自分の人生には欠かせない存在なのだ。
そして…
人生最後の日にも…
村人達はその人の歌を歌って最後の見送りをするのだ。
と、こんなお話を聞いた僕は、なんだかわからないけど心の中にあたたかいものを感じた。
そして、「いいなぁ…そういうの」って。
そんな風習や文化があるということ、本当に素敵だ!と思えた。
これを読まれた皆さんもそれぞれの感じ方があるのでしょうけれど…どうでしたでしょうか?
(2004/06/24)
先日、セラピストスクールの同期でお友達の”ねね”さんのヴォイスヒーリングライブに行ってきました。
会場は東京都の国分寺にある泉の里コンツェルトザールというところ、100名程度が定員でしょうか??こじんまりとしていているけど落ち着いた感じのいいところです。
彼女のライブに行くのは初めてではない。今回が4〜5回目くらいだろうか…
ヴォイスヒーリングライブというように声、歌声が癒しになるのだが、歌声もさることながら毎回新たな気づきやとても心地よい波動をもらっている。
僕が感じるのは、歌というのはうまいとか下手とかいうことでなく、心の表現なのだということ。彼女の歌を通しての表現力には本当に感心する。
人として生きて、一瞬一瞬を経験しているということは、表現そのものかもしれない。
良し悪しは別として、心の中では激しい感情が渦巻く一方、表情が仮面のような人もいる。これも一つの表現かもしれないけれど…
また、よく「心を開いて…」というが、おそらく心を開かないでいると、自分の思ったような表現はできないのではないか?と思う。
”つよい人”というのは涙を流さずに我慢し、かたくなにポーカーフェイスを維持し続けるとか、無感情を装うようなことではないと思う。
よく、男の子に対して言い聞かせる「強い子なんだから泣かないで!」とか泣かないことでエライと褒めたりすることは、何となくあたりまえのようなところもあるのではないか?親や大人達の知らず知らずのうちの教化がそんな意識を気づかずに作り出す源となっていることも否めない。
実はこれらについては僕自身にも当てはまることで、言えたことではないかもしれないけれど、感情は表現していいものなのだ。
感情むき出しに、とかでなくて…そのかたちも様々なものがあっていい。その中には歌もあるだろうし、絵画や作品制作、文章、踊り、人との接し方…
いずれにしても”心を開いて行う”ことが大事なんじゃないかと心底思う。
自分自身の心の呪縛から解いてあげることは、真の生き方の発見につながるのではないかと思っている。
(2004/06/21)
LastUpdate:2022/07/14
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