00/01/06~00/06/23


経験して初めて知ること(2000/06/23)

山田かまち展(2000/06/01)

シアワセノカタチ(2000/05/26)

我に返る(2000/05/21)

心配することの意味(2000/05/12)

目には目を、歯には…(2000/04/21)

ダライ・ラマ法王東京講演を聴講して(2000/04/15)

共時性/シンクロニシティ(2000/04/15)

私にできること、私にしかできないこと…(2000/04/02)

正直さの示すところ(2000/03/09)

幸福論(2000/03/01)

私/愛(2000/02/10)

生きること…そしてジョン・レノンのイマジンについて(2000/02/07)

人生の目的 (2000/02/06)

マナティのささやき/シンクロニシティ(2000/02/03)

ミレニアム2000 (2000/01/06)

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経験して初めて知ること

 よく、車のリヤウィンドウに「BABY IN A CAR」とか「赤ちゃん乗せています」とか書かれているステッカーが貼られているのをよく見かけることがあるだろう。 私はそれを見て、「だから、なんだというの?」と心の中で冷ややかな対応をしていた。もちろん法律的にも義務ではないし… また、遅く走っている車にイライラしたりして… 
しかし、妻の妊娠を意識したときから何かが変わった。 
そう「大事」なんです。家族が。そして、父となった今はもっともっとそれが大事に思えてきたのです。娘を乗せて走るときなんかは、とにかく気がかりです。
 どんな危険でも回避したい…赤ちゃんが乗っていることを知らしめて、気を付けて欲しいとの思いが、それをつくらせたのでしょう。
あの、ステッカー"赤ちゃん乗せています"は本当に親心、愛からくるものなのだと感じました。
 私が変わったのはそれだけではなかったのです。自分で言うのも変なのかもしれないけど、周りの車に対して、また運転に思いやりがでてきたようなのです。
これも気づきの一つなのでしょう。
 またずっと以前、私が働いていた会社の先輩にこんな話を聞きました。 「電車に乗っていて、席をゆずるのは、お年寄り、体の不自由な人…と思っていたけれど、結婚して、子供が出来てから"寝ている子供を抱っこしている人"を加えることにしたんだ。」と。
「寝ている子供は本当に重いんだよ。本当に大変なんだよ。」としみじみ語ったあの言葉が急に思い出されました。
このように自分が経験してみて、はじめて周りの出来事が見えてきたりといったようなことが少なからずあるでしょう。全てがそうというわけではないでしょうが…しかし、こうして世界が拡がってくるものも確かにあるのでしょうね。ふとそんなことを感じた今日この頃です。

 (2000/06/23)

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山田かまち展

 2000年5月25日、記念すべき日に心の記念になる経験ができた。 「山田かまち展」/東京・上野の森美術館(2000年5月12日〜6月1日)  ここで少し、"山田かまち"という人物についてご紹介したい。 最初に言っておくと、彼は、もうこの世にはいない。 (パンフレットより引用) 1960年7月21日群馬県高崎市に生まれる。幼少の頃から画才を発揮し、水彩画、パステル、デッサンなど約1,000点を制作。その他にもノートに記された絵や詩は23冊分にもなる。中学にはいると作曲や演奏など、音楽活動に熱中、ビートルズをはじめとするロックミュージックに傾注する。1977年、高校一年の夏、愛用のエレキギターの練習中に感電し、不慮の死を遂げる。享年17歳。 

「感じなくちゃならない、
   やらなくちゃならない
       美しがらなくちゃならない」
 こんなフレーズが飛び込んできた。彼の言葉である。 僕は、以前から彼の人生に興味を持っていた。生き急ぐようにして、多くの作品を世に出し、多くの人々に支持されている彼は何者なんだろう? 今、僕があらためて彼の絵や詩にふれることは特別な意味を持っていたようだ。 彼の作品は"生きる"ということの意味を熱く語っているように思えてならないのだ。上記に示した彼の詩は、生き方の指標なのかもしれない。(捉え方も人それぞれみな違うところからの視点なので違うとは思うが…) 感じることは経験すること。そして、やり始めなければすべては始まらない。最後の美しがるとは?様々な事柄に注意を向けるということなのかもしれないし、全ての事象は価値判断を越えて、純粋で美しいものなのかもしれない。  彼の詩のいくつかのなかに共通していることは、"今を生きる"ということであり、その瞬間瞬間に起きている事柄に全精力を注ぐことだ。  彼はある夏の日、汗だくでエレキギターの演奏に夢中になっているとき、不幸にして感電死という状況でこの世を去った。彼は死の直前まで"生きて"いたのだ。いや、今多くの若者をはじめとした人々に感動を与え、意識のシフトを起こさせるような作品を前にすると、彼の意識は今も生きているといえるのではないだろうか?

  私は、上野でこの「山田かまち展」を鑑賞しているまさにただなかに、妻からの電話を受けた。「陣痛が来て、赤ちゃん、今日中に生まれるらしいの…」と。その足で妻の待つ産院へと迎い、新しい生命との対面を果たしたのです。 「生」というものに対しての、新鮮な感覚、感動さめやらぬ真っ直中に受けたこの知らせ。妻の元へ向かう車中、いろいろなことを考えた。我が子には親の押しつけなどをせず、ほんとうに自分の足で精一杯「生きて」いけるようなサポートをしたいな…とか。 この日は、初めて父となった自分、と我が子の出生を刷新した意識の元で意味あるものとしてとらえられた日であったと思う。そういったことで、冒頭に書いた「記念すべき日に…」はやはりただの偶然ではなく、天からのプレゼントだったのかもしれない。

 (2000/06/01)

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シアワセノカタチ

私たちは目的、意志、思考…と、一人として完全に一致している人はいないだろう。 きっとそれぞれ、違うこと、同じでないことが、その存在を完璧なものとしている価値なんじゃないだろうか? だから、表面上では同じ様なことをしているように見えても、その存在に起きている出来事、つまり経験は全く違うものなのだ。  僕は以前、歩いているというだけで、幸せを噛みしめたことがある。 でも、他の人にとって"歩く" ということは幸せなことなのか? そうとは言えない。だけど、そうとも言える。 「幸せは誰が決めているの?」 私。 幸せの価値は、他人には決められない。自分で決めるんだ。 それはとても自由で、とてもシビアなことなのかもしれない… 自分で決めるということは、自分を創っている。また、そこに価値判断が加わると、自分を苦しめる結果となることもあるだろう。 幸せには形はない。自分で自由に形作ることができる。 "幸せの形"ではなく"シアワセノカタチ"にする意味も考えてみて下さい。 そう、あなたが決めていいのです。

 (2000/05/26)

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我に返る

「ここがヘンだよ、日本人!」TBS系で放映されている番組です。この番組が始まって間もない頃には、見ていながらとても不愉快な思いをしていました。
それは、何故なのだろう?
私は自分なりの確固たる意見を持っていて…それはそれで良いことなのだが、自分とは異なる、そして合わない意見に対して躍起になって否定し、また腹を立てていたのだ。
「人はそれぞれ異なった意見を持っていて当然のこと。」これを一般的な言葉としてとらえれば、そうだね、そりゃあたり前かな…と思えるのに…
自分がそれにハマリ込んでいると本当に気づかないものだ。心中とっても穏やかでなく、腹立たしい思いが渦巻いている… ふとすると冷静な自分も居たりする。
そんなときには、今まで怒りの中にいた自分ではないのだ。
何が起きているのだろう?
私たちは、自分の信念に基づいて、何かを創っているのだ。創って自分がそのものになる。
それを経験すると、それから"離れる"。これが"我に返る"ということなのかもしれない。
創って、そのものになっているときの自分は小さな存在なのかもしれない。実際、視野が狭く行動も思考も限定的になってしまう。その小さな存在(創造)から離れたとき、自分は大きな存在となるのかもしれない。「我に返る」という時、もっと広い視野が開けてくるのではないだろうか?
「我に返る」というと、偶然や何かをきっかけにしてしか起こらないもののように感じるかもしれないが、そんなことはなく、自分で"ハマっている"ことに気づけばいいんです。
「第三者的な立場で自分を見る」ことが、その助けになるかもしれませんね。
 今となっては、私は「ここがヘンだよ、日本人!」をとても面白いなぁというスタンスで見ています。世界各国の人の様々な考え、観点を見るのは、とても興味深いことです。

(2000/05/21)

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心配することの意味

 「私は、あなたのことを本当に心配しているの。」
このフレーズを見て、または聞いて、愛情に満ちた言葉のように思えますか?
どうでしょう?
 さて、人の"思い"や"意識"が他の人にどういった影響を与えているか?と考えてみると、面白い。その人を決めている要因、または構成要素となっていることがあるから。
そのものの思いの表側に視点を置いて見てみると何ら不思議なことはない。しかしその裏には、ある「肯定」(=その人を決めている要因、または構成要素)がある。これは「暗に認めている」と同じ事なのだが…

冒頭のフレーズ、「私は、あなたのことを本当に心配しているの。」は何を暗に示し、認め、決めているのか?
わかりやすくするために、上記の文中の"私"はこの文章を書いている私として、"あなた"は今この文章を読んでいるあなたということにしてみましょう。

私は、あなたを「力のない存在である」と暗に決めている(決めつけている)のです。あなたを形作っている一要素を私が決めているのです。
そう、違う観点から見ると、結果的に私はあなたの力を奪っていることになるのかもしれません。

心配することの何がいけないんだろう?心配することが当たり前のこともあるだろう?と思う方もいるでしょう。

きっとこれは悪いとか良いとかの問題ではないでしょう。もっと大きなところからの見方をすると何か違った気づきが得られるかもしれません。

わたしなら、うそでもこういわれたほうが力が沸いてきますね。「私はわかってる。あなたならきっと出来るよ。」って。

でも、こう言われて「いいや、俺なんて…」と思ってしまう方もいると思いますが、何れにしてもあなたの宇宙のなかで全てを決めているのはあなた自身なのですから。本当に力のない存在に自分をおとしめてしまうことになるのでしょう。

(2000/05/12)

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目には目を、歯には…

 ニュースステーションで、”アメリカの銃規制がいっこうに進まない”という話題を取り上げていた。
アメリカが依然として銃を持ち、銃犯罪による悲惨な被害が拡がり続けるなか、今の状態をなくせない意味は何なのだろうか?
アメリカの銃規制の話題では必ずと言っていいほど「全米ライフル協会」という名称がでてくる。会長に有名俳優を設えあたり、アメリカの自由というものと銃とを結びつけて愛国心を駆り立てさせてその必要性を説いたりと様々な策を講じて必死に抵抗しているように私には見える。
 アメリカの一市民にマイクを向けてみてもその考えは様々なようで… 銃規制をしたら善良な市民が犯罪者の被害に遭うばかりで意味が無く、自分の身を守るために銃は必需品だという考えが当たり前のように語られている。
これはまさにオマエがするならオレもする。オマエがその力を持つならば、オレもオマエと同じ力をもって自分を弱い立場に置かないようにする。これではいつまで経ったって、もとにあった平和で安全な世界など築けようもないのではないか…
心の中の恐れは人々を弱くするようだ。世界から核兵器がなくならないのと同じように…
 銃規制はあくまで”抑え込み”の策に過ぎない。抑えることによって、かえって人々に不安感や恐れを残す結果となることもあるのではないだろうか?”抜本的な改革”という言葉があるように、対処的なことばかりをしていても本質的な解決にはならないような気がする。まずは、人口以上に存在するという銃を少なくしていくことも重要だろうが、平行して子供の頃からの教育にこの本質的な部分を浸透させるべきだと思う。そう、もとを断たなければ。
いつまでも、目には目を歯には歯を…という恐れが自らを弱い存在にしていく考えをここで見直して、みんなが幸せな暮らしの中に共存できるALL-OKな考えを子供のうちから身につけることも重要であると思う。「恐れ」の対局にあるものは「愛」なのだから、これを育むことが一番の手ではないだろうか?
 生まれながらの犯罪者など、誰一人として居ない。愛に飢えて、怖れにうち負かされて… 自分を冷静に見ることができなくなって… そうやって…
 銃を規制するだけの問題ではなく、もっと幅広い目で見つめなければならないような気がする。見方は人の数だけあるといえやしないだろうか?ならば、策も多くの”観点”から探っていく必要がありそうだ。

(2000/04/21)

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ダライ・ラマ法王東京講演を聴講して

 4/14、15の2日間は東京ベイNKホールで行われた、ダライ・ラマ法王東京講演に行ってきました。
開場9:00だったのですが、少し早めに行きましたが、トラブルで入場が遅れたうえにセキュリティチェックが厳しく、金属探知器、手荷物の内容確認があって手間取りました。講演が始まってもまだチェック待ちの人もいたそうです。
さて、私の席はアリーナ席で、わりといい席でした。
私はダライ・ラマ法王を初めて見たのは、映画「ガイヤシンフォニー2」でのことでした。そこでの法王の印象は、とても無邪気な雰囲気を出した気さくな人だなぁ…という感じでした。今回、初めてナマで会った感じはまさにその感じがあふれ出しているように、その通りでした。また、法王が肩に掛けている入れ物には、ティッシュ、メガネケース、仏像、飴が入っているとか…法王はとても楽しそうに笑いながら語っていました。こんなこと言っては失礼かもしれませんが、とても”かわいぃ”感じなのです。こういう雰囲気の人っていうのは、居そうで居ないんですよね。これが優しさ、無邪気さ、慈愛に満ちた波動なんだなぁ…と、暫しその感じを感じていたくらいです。
 私はチベット仏教、仏教について熱心に勉強したわけでもなく、今回の講演での話しが理解できるか些か不安でしたが、法王のお話は、私がこれまで探求してきた様々な体系に通ずる内容で、私の印象としては、「やはり、魂の成長という観点からすると、宗教や体系の差こそあれ、目指すところは一緒なんだな!」と感じるに至りました。また、共時性ともいうべきか、『宇宙のゆらぎ・人生のフラクタル』に記述されていた内容は法王が語る内容を予習するかの如くの内容で、よりいっそう法王の教えを深く理解することが出来ました。一貫して言っていたことは、私たちが体験しているこの現実というものは、それそのものの力で存在するものではないということ。それは、因縁(原因と結果)によって生じている実態のないものであるという。その本体は自らの心の中にあり、そのことを理解することがすなわち「空(ku-)」である。不幸な経験はそれそのものが実態として生じているのではなく、心の中に実体があるのである。つまり、心の平安をもつことにより幸せがその結果として現れるということだろう。まさしく、原因と結果の理論であり、『宇宙のゆらぎ・人生のフラクタル』でいう明在系・暗在系のことだ。私の言い方で言えば「私たちの体験する現実は自らの信念の投影である。」ということになるのだろう。
心から理解できるというとても有意義で素晴らしい体験をさせてもらい、心の軽い状態で居る今の状況です。

(ちょっと長いのですが、ダライ・ラマ法王についてのご紹介コメントを掲載します。)

ダライ・ラマ法王十四世 テンジン・ギャツォは、チベット民族の国家的、精神的指導者の地位に就かれています。チベット北東部のタクツェルという村落で、1936年7月6日、自作農を営む一家にご誕生後、ラモ・ドンドゥップと命名され、2歳の時に、ダライ・ラマ法王十三世、トゥプテン・ギャツォの転生者であるとの認定を受けられました。
ダライ・ラマとはモンゴルの称号で「大海」を意味し、歴代の転生者は、慈悲の観音菩薩、チェンレンシの化身とされます。観音菩薩は、悟りを得ても涅槃に入らず衆生を救済するため転生することを誓願された存在、とされています。
チベットでの教育ダライ・ラマ法王は、6歳の時より僧院での学習を始められました。1959年、23歳の時には、毎年開かれるモンラム(祈り)の祭典の期間中にラサのジョカン僧院で最終試験を受けられましたが、法王は、この試験に見事に合格され、ラランパの学位(最高位のゲシェーの学位で仏教哲学の博士号)を受けられました。
指導者としての責務
中国が1949年にチベットヘ侵攻した後、1950年、全政治的権限がダライ・ラマ法王に委任されました。法王は、1954年には北京を訪問し、毛沢東やケ小平など、その他の中国の指導者たちと平和に関する会談を行われましたが、1959年、中国軍がついにラサ市民の武装決起を残虐な方法で弾圧するにいたると、ダライ・ラマ法王は、国外への脱出を余儀なくされたのでした。法王は、現在までの40年間、インド北部のダラムサラにおいてチベット亡命政府の元首としての立場を保たれています。中国の侵攻以来、法王は、国連がチベット間題を取り上げるよう要請されており、その結果、1959年、1961年、そして1965年のそれぞれの年に、国連総会においてチベット問題に関する決議案が採択されました。
民主化へのプロセス
ダライ・ラマ法王は、1963年、「チベット民主憲法の草案」を公布されました。その後、法王は何年にもわたってさまざまな民主的な改革を推し進められましたが、1990年5月には、法王の命を受けて施行された抜本的な改革により、本当
の意味でのチベット民主政府が樹立されたのです。この時点で、かつて法王の任命により組閣されたチベット内閣(カシャック)や、第十国民代議員大会は解散し、初めての選挙が実施されました。亡命政府の第十一国民代議員大会では、代議員が増員されました。代議員は、インド亜大陸、そして33カ国以上の国々に在住のチベット人による、「一人一票」の原則に基づく選挙により選出されます。亡命政府の国民代議員大会は、ダラムサラに拠点を構え、代議員の数は議長、副議長を含む46名となっています。
法王は、自由で民主的なチベットの創立を目標として、既存の憲法草案を改定するための委員会を設立されましたが、同時期、第十一国民代議員大会は、亡命中のチベット人に対するチベット政府の責務を詳細に示す指針として、チベット亡命政権の「新憲章」を採択しました。「新憲章」は、チベットの領土は3つの伝統的な州、ウー・ツァン州、アムド州、そしてカム州であること、そしてチベットは将来、連邦民主国家となることを明言しています。「新憲章」はまた、言論、信条、集会、そして活動の自由を保証しています。1992年に法王は、チベットが独立したときに最初に果たすべき務めは、暫定政府を設立し憲法制定議会を選出して、チベット民主憲法の立法と採択を最優先で実施することである、と宣言されました。法王はまた、チベットの独立が実現したあかつきには、「すべての伝統的、そして政治的な権限を首相代行に委ね、自身は一市民としての生活を送るつもりである」というご意向も明らかにされています。
平和への礎
ダライ・ラマ法王は、1987年、チベットの国情悪化を解決するための最初の一歩として、「チベットのための五項目和平プラン」を提案されました。この和平プランで法王は、未来のチベットをアジアの中心にある平和地帯、いわば非暴力の聖域として、一切の生けるものが共存し、自然が復活、繁栄する世界として構想しています。中国は現在まで、法王が将来に向けて提唱されたさまざまな和平案に対し、積極的な回答を寄せたことはありません。
チベット人からの崇敬
ダライ・ラマ法王に対してすべてのチベット人が抱く尊敬の念は、言葉では言い表せないほど深いものです。チベット人にとってダライ・ラマ法王は、チベットの様々な要素 − チベットの大地の美しさ、河流や湖水の清らかさ、大気の神聖さ、山々の不動な姿、そしてチベットの民が持つ堅忍不抜な意志 − を一つにした象徴なのです。
世界中からの称賛
ダライ・ラマ法王こそ、真の平和主義者と言えましょう。法王は、チベットの自由化のために非暴力による闘争を選択され、1989年にはノーベル平和賞を受賞されました。法王は、苛烈な攻撃に直面される時でさえも、非暴力による方策を絶えず提唱されています。法王はまた、世界規模の環境問題への取り組みによる功績が認められた、初めてのノーベル賞受賞者でもいらっしやいます。ダライ・ラマ法王は50カ国以上の国々を歴訪され、主要な国々の大統領、首相、そして王室の方々と会談されています。また、異なる宗教の指導者や著名な科学者たちとの対話も実現されています。
1959年から現在まで、ダライ・ラマ法王は、平和のメッセージ、非暴力主義、宗教間の相互理解、世界的な問題に対する責任感と慈悲心が認められ、30を越える名誉博士の学位や客賞が授与されました。また、二ューヨークでベストセラーとなっている「The Ethics for New Millennium」と「Art of Happiness(邦題:心の育て方)」を含む30冊以上の著作を執筆
されました。ダライ・ラマ法王は、ご自身のことを一介の仏教の僧侶にすぎない、と述べられています。法王がご訪問し講演を開かれた国々で法王の姿を実際に目にした人たちは誰もが、その無垢なお心と思いやりのあるご様子に感銘を受けています。法王はメッセージを通して、愛、思いやり、そして寛大さを伝えられています。

(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)作成 パンフレットより転載)

(2000/04/15)

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共時性/シンクロニシティ

 最近、不思議な現象が当たり前のようにして起こっている。それは共時性(シンクロニシティ)と呼ばれるものである。
先日、家の中のちょっと大掛かりな掃除をしたときに出てきたタロットカード、これは私が小学校6年の時に買った始めての占いグッズで、紙製のカードは古本のような特有な匂いがついていた。で、大掛かりな掃除ということもあって、いろいろな不要物を捨てたり、ものの配置を変えたりしてきれいにしていたのだが、なぜかそのタロットカードはキッチンにある小さな食器棚の上に置かれたままの状態だった。妻には「なんで、タロットカードみたいな似つかわしくないモノがが台所にいつまでも置いてあるのよぉ…」と言われても、「うーん、後で片付けるよぉ。」と気のない返事をしていた。なぜだか自分でも知らないけどどうしても片付ける気になれなかったのが正直なところ。ということで、いつまでもソコに置かれたままだったのでした。しかしこの場所は2階へ上がる階段のすぐ脇にあるので、2階へ上がるときにはいつも目にはいるんです。そしてなーんだかしらないけど気になる。しかし手に触れるでもなく置かれたまま…
こんな状態のある日、私は月に1〜2回のスクールに通っているのですが、その授業のなかのフレーズを聞いて、「あっ、これだったのね!」と、まさに直観が来たのでした!
そこでは、原型(アーキタイプ)についての話しだったのですが、その中の重要な部分を占める内容で「タロット・カード」そのものについての話しがあったのでした!ココでは、タロットカードの大アルカナ22枚の全体的な意味と、一枚一枚が持つ不思議な意味についての講義があり、とても印象に残ったのです。早速、その日は家に帰った後、その古めかしいタロットカードを手に取りその意味について思いに耽ったのです。
 他にも、夢に出た人物との実際の出会いが生まれたりしたことが数件。
そして、ダライ・ラマ法王東京講演への共時性の一段階として、著書との出会いがありました。それは、やはり直観にしたがった結果から起こりました。私は池袋の大手の書店に本を買いに行ったのですが、お目当ての本は見あたらずにがっかりしていたところ、精神世界のコーナーのある一点に目が止まりました。それは『宇宙のゆらぎ・人生のフラクタル』という天外伺朗さんと佐治晴夫さんの共著の本だった。また来た”これだ!”だ。迷わず手に取りレジへ。私はいつも本をこんなふうにして買うんです。ま、それはいいとして…
この本は、今の私にとって必要な情報が過不足無くそこにあったのです。(Books&CDコーナーに感想文を掲載予定)
これらの現象の「共時性」についてや、般若心経における「空(ku-)」について(これはこの後の記述、ダライ・ラマ法王講演に至る)のことが書かれていました。
なんだか、宇宙のサポートが来ているようで嬉しい!気分なんですよ。人や著書との巡り合わせや出会いが全て私の人生に深みを加えていくようで… ここに書いていること以外でもそれも、トントン拍子ということが沢山ありました。
直観や気づきを大切にすることは、やはり大事なことなんだと再認識している今日この頃です。

(2000/04/15)

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私にできること、私にしかできないこと…

”私”という人間として生きることは、「私」にしかできない。
”あなた”という人間として生きることは、「あなた」にしかできない。
「そんなことあたりまえさ!」と、どこかで聞こえてきそうだか…
でも、私たちは人のすることを見て、それが自分に出来ないことであったりすると落胆したり、嫉妬心を抱いてしまったりといった経験はないだろうか?
基準は自分においていいのです。私は無力だと決めつけてしまわないで!
自分に出来ることを意味のあることとして自分のスタンスで無理なく行うのが、あなたのする事なのです。
義務感や恐怖からではなく、「私」としてやるんです。
比べてみて下さい… 同じ事をするにしても…
・「アイツが出来るんだから、私はアイツより上手く早くこなす。」
・「自分がそれをすることが好きでいて、自分の意志でする。」
前者は、競争心やプレッシャーのなかで半ば自分を失った状態で行うようなものだ。それがうまくいかなければ…という不安感や、アイツに負けたときの屈辱への恐れ…これらの中で行うことの辛さ。
後者は、「私」が基準となって自分のスタンスで行うことで、恐れや不安とは無縁で、逆に心に余裕のある状態で行える。心に余裕がある時というのは、ものを見る視野も拡がり、深い考察ができたりするものですね。結局が自分のためになるんです。「私」が主体になってするということは、あなたにしかできないことなのです。

 また、他力本願について思うこと。
私たちはきっと「誰かがするから…」と思っていることは多くはないだろうか。
地球の環境破壊、世界平和、政治腐敗… 「何とかしなければ!」とは思うものの、つい足踏みをしてしまう。
「誰かがするさ。」この考えを、私を含めあなた、そして世界中の人々がみなしていたら…
きっと何も変わりませんね。
「誰かがする」から「私がする」への転換が小さな一歩を踏み出し、世界を変えるきっかけになるのではないかと思う。

(2000/04/02)

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正直さの示すところ

 私たちは少なからず心に秘め事を持って生きている。
それは、当然のことで、もしも!心の中に隠し事の出来ない状況になったらきっとパニックになるだろう。なぜパニックにならざるを得ないのだろうか?
それは、自分をよく見せたい…ひどい人だと思われたくない…これがバレたらきっと軽蔑されてしまうのではないか?…など。恐れが付きまとってくるのだ。
「秘密」というものを、生まれたときから私たちが持たなかったとしたら?そういう世界だとしたら?
気持ちは楽になるのではないでしょうか?まさに「これが自由だ!」とさえ思えるかもしれない。
嘘を一つつくと、その嘘を隠すための嘘をまたつき、その嘘をついたことを覚えて置かなければこの先、嘘がバレてしまう…不安だ…と。嘘まみれの人生になってしまう。この状況はとても辛く大変なことだ。
この状況を他人事のようにしてみてみると。
正直でいればそんなに気を使わなくてもいいのに… (「気を使う」=エネルギーの消耗をきたしてしまう。)
 以前から何度も繰り返し言っていることだが、私たちの体験する現実は、今この一瞬に自分で創り出している。。そして過去も未来も、今この一瞬に"自分"である"私"が創っているのです。つまり同時に存在しているのです。ですから、「今」というこの時しかないのに、自らついた嘘のせいで、過去へ視点の一部が常に固定された状態にあることになるのです。自らの現実創造はこの一瞬に対して100%の注意を向けるのが一番いいのです。これが今を生きるということに他なりません。固定化された注意があるとき100%の力が発揮できないでいるのです。(今に生きていない。)
完全に、現在のみに注意を向けるなんてことはできないし、理想論ではあるけれど…
少なくとも、自分で自らの障害となるようなブロックを置かないことを意識してみるだけでも違うのではないだろうか?言い換えれば「正直になる」ことです。また、ついてしまった嘘を勇気を持って訂正する。その時は自分自身に対しての恥ずかしさや屈辱感、自己嫌悪なども生まれるかもしれない。しかしここでこの障害を断つ意味はとても大きいだろう。結果として自分のパワーを高めることになるのですから。
 また、キリスト教の中には懺悔というものがありますが、まさにこれは、ここまで述べてきたことではないだろうか?と、ふと気づきました。「悔い改め」というフレーズがありますが、なにも悔やむ必要はなく、自らの意志で自分の創り出した障壁を壊し、そこから改めればいいのではないでしょうか。
正直さの示すものは、多くの力をもたらす…ほかにもありますね。

(2000/03/09)

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幸福論

 幸福論を唱えるとき、様々な意見や見方があると思うが…
僕が今まで読んだり聞いたりした中で”なるほど”と言えるものを挙げて考えてみたいと思います。

『欲望をより減らした方が幸福になれる』
 うーん、なるほど!と思えませんか?
私たちが失望や絶望を感じるときには、その前に必ず何かの欲望があって、それがかなわなかったときにあるのではないでしょうか?逆に考えれば、欲望が多ければ多いほど、失望や絶望を感じる機会が多くなるということで、そんな機会が増えてくれば、自ずと不幸な考え方になってくるのも頷けますね。
聖人と言われている人は、みすぼらしい格好をしていたり、無欲であるような姿が共通してあるのではないか?とふと感じました。これは、欲望を少なくして心の囚われをなくすことなのかもしれない。
もっと簡単に言えば”期待しない”ことですね。期待は「こうなるべきだ」と心に願っていることで、そうなって当たり前。または、ちょっと嬉しい程度で… かなわなければ「どうしてこうなるんだ」と嘆きに変わる。
いろいろな宗教などで、欲を捨てろといわれているが、このことはこのような意味のあることなんだと実感しました。

『不幸話をすればするほどその人は不幸になっていく』
人は、その人が繰り返し話しているものに段々近づいていく。人と会っては「聞いてよ!私はこんなに不幸なの…」という人はいつまでもその不幸から抜け出せないでいるようです。
目先の不幸を探して取り上げるよりも、希望や先の幸せを思い描いて人に語るべきでしょう。
私たちの言葉は力です。話す言葉は現実を創る種のようなものですね。

『他人の幸福を願うことが私の幸福を創る』
自己中心的な考えが、”私(=自分)”と”あなた(=他人)”を分離した存在としての見方をさせてしまう。
他人に対する妬みや、人の幸福を快く思わないでいる。
この裏には、”他人が幸福でないのは当たり前であり、自分が幸福でないのはもっと納得がいかない。”という概念があるからではないだろうか?
だから、自分は幸福でなく納得がいかないのに、どうして他人であるものが幸福なんだ!と…
こんな考えとは離れて、他人の幸福を自分の幸福のように思えたら幸せですよね。
他人を憎んだり、妬んだりすると、後に自分の心の中に言いようのない空虚感ややるせない気持ちを感じるのではないだろうか。
他人の幸福を、自分の幸福とすることに思考はいらない。”感じる”ことだ。
この人のこの幸福感… この人が私だったらどんな感じがするだろう?すこし感じてみる。幸せな感じになりませんか?もうそれ以上考えることは必要ありませんね。その幸せな気持ちを感じられただけで、感謝の気持ちさえで出来そうです。

ちょっとした考えの角度を変えたり、始めと終わりを考えてみたり、感じてみたりするだけで、私たちの心は何かが変化してくるのでしょうね。その感じを味わうのも新鮮な体験かもしれません。

(2000/03/01)

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私/

 精神世界に興味のある方では知っている方も多いでしょうね。『アミ 小さな宇宙人』(エンリケ・バリオス[著]石原彰二[訳]/徳間書店)という本を。
私は本を読み返すということをあまりしなかったのですが、なぜか「もう一度読んでみたい!」という衝動に駆られて昨夜から読み始めたのです。”宇宙には偶然はない!”まさにそんな言葉が頭を駆けめぐるようでした。それは、今の私に必要なメッセージだったからです。
「自分の宇宙」という言葉に心をとらわれてしまって、なんだか自己中心的に成ってしまっている自分に気づかずにいたのでした。確かに自分の現実は自分が創っているのではあるけれど、その土台となるものを見失っていてはスタート以前の話ということになる。そうだ、を見失っていたんだ。
 この本『アミ 小さな宇宙人』はとは何か?どういうことなのか?ということを教えてくれる素晴らしい本で、私は誰にでも勧められる一冊なのではないか思う。
 私がこのHPを創ったきっかけは、この本に触発され、「私たちにとって大切なこと。それはにもとづいて、その一瞬を精一杯生きることだ…」ということを伝えていきたからだった。ということに気づいたのです。
特に日本人は「」という言葉に抵抗があるようで、恥ずかしいとか、偽善的な感じがする…などポジティブとはいいがたい受け止め方が少なからずあるようだが、「」とは何か?を正しく知ることによって、恥ずかしいことでも、偽りの見せかけのものでもなくて、本当に純粋で素晴らしいものであると言うことが解ってくるはずだ。
私はあえてここで、この「」とは何か?ということに触れないでおこうと思います。あなたが、心で感じて認識するのが一番だと思うからです。
本当にお勧めします。『アミ 小さな宇宙人』を。
きっと、優しい、勇気に満ちた、幸せな感覚になれると思いますよ。

P.S.続編、『戻ってきたアミ』がさらにあなたの幸せな気持ちを拡げてくれることと思います…

(2000/02/10)

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生きること…そしてジョン・レノンのイマジンについて

 つい最近、妻とのこんな会話があった。
私はサラリーマンではなくなったし、日々する事が決まっているわけでもないのでこんな会話になるのですが…

妻:「ねぇねぇ、明日は何するぅ?」
私:「生きる!」
妻:「はぁ…そんなあたりまえのことを…」
私:「そうかぁ…」

私自身、なんで「生きる!」なんてフレーズが口をついて出たのか解らなかったのですが、ハッとする感覚があり、ここで心の奥底から深く考えさせられたのでした。
「ん…まてよ…はたして、”生きる”ということは当たり前のことなんだろうか?」「なにげなく生きているけれど、今、生きているってことは、もしかして、とても特別なことなんじゃないだろうか?」と。
そう考えてみると、自分が”生きている”と言う感覚がリアルに感じられ、不思議だった。この感覚…当たり前のようで当たり前じゃない感覚。今まで、「俺は生きているんだ!!」と感じたことがどれくらいあっただろうか?あったとしても数回、それも近年には感じなかった感覚だった。
そうか…生きているっていう事は素晴らしいことなんだな。とっても貴重で、それも誰一人として同じじゃない命。だったら、自分らしく楽しんで悔いのない生き方をしたい!と真剣に思ったのでした。

 現実は私たちそれぞれが創っているものなのです。
そして原因があって結果がある。
ある存在や出来事は、誰一人にも例外なく中立の立場で存在している。
その存在、出来事をどうとらえて、人生にどういう態度をとって、どのように行動して、どう考えて…
これらの結果が私たちの体験する現実なのです。
とらえかたというのはその人の信念によって決まります。いや、それは信念そのものかもしれません。
信念は現実を創造する。

 同じソウゾウでもイメージする想像は、現実をクリエイト(創造)するための大きな助けとなる。別の言い方をするとイメージすることは現実を変えるだけの大きな力を持つということである。それも私たち一人一人にその能力が与えられている。
そこでジョン・レノンの『IMAGINE』が思い出される。
多くの人は、想像や空想を疎かにしがちで、夢見る人を”夢想家”などと蔑むこともある。
しかし、私は「そんなことはない!」と言い切ろう。
思いおこしてみよう。私たちは、今までかなえてきた夢に向かっていた時、あらゆるイメージや空想をしていたのではないでしょうか? 「あー、アレがあったら楽しいだろうなぁ…」「こんなふうになったらみんな幸せになるのになぁ…」と。
ほら。そして、実際にかなえちゃったじゃない?

全ての人々がひとつの世界で、今日に生き、分かち合い、平和に暮らしている姿を…
想像しましょう! 思い浮かべてみましょう!
あなたや私の力はきっとこの現実想像に大きな影響を与えることでしょう!

IMAGINE/John・Lennon

Imagine there's no heaven
想像してみてごらんよ、天国なんてないと
It's easy if you try
簡単だよ、やってごらん
No hell below us
地獄もなく、
Above us only sky
ただ空が広がっているだけ
Imagine all the people
想像してみてごらんよ、全ての人々が
Living for today…
今日のために生きているところを…

Imagine there's no countries
想像してみてごらんよ、国家なんてないって
It isn't hard to do
難しくないよ
Nothing to kill or die for
人を殺したり、命を投げ出すこともない
And no religion too
宗教だって同じことさ
Imagine all the people
想像してみてごらんよ、全ての人々が
Living life in peace…
平和に暮らしているところを…

You may say I'm a dreamer
あなた達は僕を夢想家と言うだろう
But I'm not the only one
でもただの夢想家じゃない
I hope someday you'll join us
いつの日かあなた達が僕達の仲間に
And the world will be as one
なってくれたら、世界は一つになる

Imagine no possessions
想像してみてごらんよ、所有物なんてないって
I wonder if you can
さぁ、できるかな…
No need for greed of hunger
貪欲になったり、腹を空かすこともない
A brotherhood of man
人類はみんな兄弟
Imagine all the people
想像してみてごらんよ、全ての人々が
Sharing all the world…
世界中で分かち合っているところを…

You may say I'm a dreamer
あなた達は僕を夢想家と言うだろう
But I'm not the only one
でもただの夢想家じゃない
I hope someday you'll join us
いつの日かあなた達が僕達の仲間に
And the world will be as one
なってくれたら、世界は一つになる

(2000/02/07)

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人生の目的

 人生は、よく道を歩いていくことに例えられるものです。私たちははたして目的を持った人生を送っているのだろうか?たとえて言うなら、目的を持って歩いているのだろうか?
 仕事に忙しくしていて惰性で生きているとか…こういうのって多いんじゃないでしょうか?周りを見回してみれば同じ様な人がいるし自分だけが特別じゃないさ!ってなんだかわからない安心をしちゃったりして。
そんな一日を、 睡眠不足の毎日でやっとのことで朝起きると、ゆっくりする間もなく着替えて出勤→ラッシュの電車に揺られて…朝から疲れの始まり→仕事、きっと嫌なことがいっぱいあったりしますよね…上司に気を使ったり、業績を考えたり、またはノルマに追われてみたりと…(楽しんでやれれば問題ないのですが)最悪のパターンならサービス残業なんてのもあったり→疲れた身体を引きずり電車に揺られ帰途へ→家に着く、入浴、食事→寝る
というように過ごしてしまったりしてませんか?さらに毎日こんなことを繰り返し、土日は死んだように寝て疲れをとって… こんな毎週を過ごし、こんな積み重ねで年齢を重ねていく。
なーんて悲しいことなんでしょう!! こんなシナリオは誰もが持ちたくないでしょう…でも少なからず、似たようなパターンをやってしてしまっている。そんな自分に気づきませんか?
 しかしながら私たちは、常日頃は「時間がもったいない」と時間節約を考えているのに、自分の人生の時間を軽視している事には気づかずにいるようです。
短期的に考えると、目的を持って行動していることに気づくでしょう。
例えば「今日はどこどこまで○○を買いに行ってくる」という目的を作って、意志によって行動して、達成する。同様に様々な目的を作って達成させています。惰性でやっていないことは明らかなことでしょう。この目的−達成の一区間を見る限り、充実していませんか?どうでしょう?
 では、充実した人生を送るにはどうしたらいいんでしょうね?そうです!目的を持つことです。完全に満足がいかないまでも、目的に向かって進んでいるという、小さな喜び、気づきが少なからずあるはずです。人生が活き活きと感じられるためのきっかけなんです。
 といっても…人生の目的なんて大きな事を…と躊躇してしまうかもしれません。
いいんです、時間をかけて。 たまには一人の時間を作って落ち着いて、自分自身の心に触れる時間を作ってみましょう。瞑想するのもいいでしょう。「自分の人生でやってみたいこと…、こんな自分になりたい、夢は…」とそんなことに意識をむけて自分のこころと対話する機会を持つことをおすすめします。
きっと、あなたにとって心をうずかせる何かに出会えるのではないかと思います…

(2000/02/06)

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マナティのささやき/シンクロニシティ

 私は2000/1/16−1/31まで、米国Star'sEdge社主催のアバターの上級コースである”ウィザードコース”に参加してきた。
このコースの感想などについては後日触れることにして…
開催地はアメリカ・フロリダ州、オーランド。アメリカ東海岸の南端の半島、とても温暖で気持ちの良い場所である。この一帯は湿地帯で大小さまざまな湖が点在している。
さて、このウィザード・コース中日に設定された自由時間に、SEAWORLDというテーマパークに行ったのである。
これはあるシンクロニシティに始まった。

 1/20の夜、満月のオーランド。私たちは食事をするついでにスーパーに買い物に行った。21時頃、夜空を見上げると大きな満月があった。日本食レストランで食事をすませた後、22時すぎ、ふと見上げると「あれぇーっ?月が欠けてるぞ!」「何だぁ!月食か??」「知らないぞ、そんなの…」
確かにこの日は地球の陰に隠れる月食だったのです。海外にいると現地のそんな情報は耳に入らなかったので突如の経験として新鮮でさえありました。
この情報を信実として知ったのは翌日のNEWSPAPERでした。記事の一面に欠けた月の写真が載っていました。
私は友人のK君にその記事を知らせようと、新聞の束ごともって見せました。
すると他の記事に面白いものがありました。「See Sea Cow !」という大きなタイトル。
K:「何だこれ!」
私:「SEACOWって海ウシ??ってこと…ないよなぁ…」
私:「あ、これジュゴンだ。いや、この尾鰭はマナティだよ!」
K:「俺、これに会いてえよ!」
私:「どこにいるかも知らないし、無理だろうなぁ…残念だけど。」
K:「そうか…」
そのあと、数日前に見たマナティについての番組についての話しをしていました。

 SEAWORLDには私とK、女性2名で行きました。シャチのショーや水上スキーのバトルショー、アシカのショーなど日本の○△シーワールドに比べてよりダイナミックとても素晴らしいものでした。
このSEAWORLDにはマナティもいることがわかって、Kと私はなにかワクワクする感覚を感じていました。
閉園までのこり30分というところで、マナティの居場所に向かいました。
水槽の上側から見たのですが、そこには尾ヒレを傷つけられた(モーターボートのスクリューでやられてしまうのだそうです)マナティが数頭ゆっくりとした泳ぎをしていたのです。SEAWORLDのマナティの飼育担当の人の話では、マナティは他のマナティの傷、心の傷を知ってお互いに癒すのだそうだ。その通り、二頭のマナティが身体を寄せ合っていました。
マナティは草食動物で、レタスなどを食べるんだそうです。草食の動物特有の穏和な波動を感じました。
下に降りて水槽側からマナティ達を見ていると、不思議なことに気づきました。
「あー、このマナティさ、何か俺達に言ってるんだよ。きっと!」と私が言い、マナティは水中で停止し胸鰭を使って私たちに話しかけているようでした。いえ、確かにそうだ!という確信さえあったのです。
尾鰭をスクリュウで傷つけられたせいか、私の感じたところ、マナティからは自然環境に対する人間の姿勢についての悲しい印象のメッセージ(波動)を感じました。
同時に癒しが行われたようにも感じ、振り返ってみると不思議な共時性(シンクロニシティ)とともにやってきた用意されたような体験だったと感じます。

(2000/02/03)

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ミレニアム2000

 いよいよ現世の人類初めての千年期、西暦2000年代が幕を開けました。
ちまたで心配されていたY2K問題も人々の生活に大きく影響を与えるような事態をうむことにはならずに済んで、ホッと胸をなで下ろしたところ。
最悪の場合にはライフラインが止まって、そのまま数ヶ月なんてささやかれていたのに… そんなこんなで、元日の午前0時0分は本当に呆気ない感じで過ぎた。(もちろん何事も無かったのは良かったことだ!)
今年の年明けは、私が良く参加している宇宙瞑想パーティのメンバーで"大忘年会"が企画され、参加者数人一緒での幕開けで、またいつもとはちがった、いいものだった。
 さて、私の今年の目標です。それは、”ゆるし”の実践です。
私は、他人に対してなんだかんだと言ってはいるけど、自分の”怒り”の対処については苦しんでいる…
ゆるしとは、「私はあなたより人格者なので許しの施しを与えましょう…」というものではない。
私は”このまま怒りをもって心のざわめきを味わう”ことにするのか”自分の意識に気づいた上で心の平静を選び、愛を味わうか”を選択する際、後者を選ぶことだ。
言い換えれば、毎瞬について「心の平静」を創り上げていくことをしていきたい。
「世界は私の心の写し鏡」なのだから、本来は目に見える世界から自分を知ればいいだけなのに… ついその事柄に良い悪いの意味を与えて自分自身で苦しんでいる。
成長への鍵は、まずそれを認識することから始まるのであろう…
続きはまた後日。

(2000/01/06)

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